インクルージョンボックス

私の内包物をつれづれと

Being at home with Claude -クロードと一緒に-2023 観劇感想

 2023年7月6日、横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホールにて、クロードと一緒にを観劇。

 久々に見たクロードと一緒に、以前(2019年Cyan版)とは違うキャストだからそのキャラクター性も違って見えた。演出やセットの小道具もだいぶ違うから新鮮だった。

 怒号や罵倒や侮辱も飛び交う、二時間ノンストップの息が詰まるような怒涛の会話劇。こんなにもたくさんの言葉が行き来するのに結局言葉はなにも足りないって気持ちにさせられる。イヴの感情も真実も過不足なく言い表せるだけの言葉は存在しないってそう思う。足りないのに受け止めきれない、身体から無理矢理にこぼれる言葉はイヴから絞り出された瞬間に変質して彼なりの正しさを失ってるような気もする。イヴのクロードへの募る感情が執務室の中でどんどん密度を増して渦巻いて稲妻みたいにほとばしって、でもイヴの思うその通りには誰にも伝わりはしない。言葉はなにも足りない。

 クロードと一緒に、好きな作品なんだけど良くわからない作品でもある。事件のなかの矛盾や謎がそのまま判明も解決もせずに終わる。そこを解決するのが目的じゃないからなんだけど、だから私から見えたものもきっと全然「真実」ではないんだろうなと思う。だれも「真実」に届かない。イヴの中の「真実」だってそう。客席のひとりひとり見えるものも感じるものも違って、見ている人の分だけ「真実」が分岐してしまう。そういう変な物語だなあと思う。

 今日私が見た松田凌さんのイヴは、なんだか半分魂が抜け出てしまったような彼だった。クロードを想いクロードからの想いを感じ取り、その度にそこに居ると思ったりそこに居ないことに気がついてしまったり、恍惚と愉悦と茫然と空虚を絶えず行き来していて、髪をクシャクシャにかきまわし叫んで悶えているときも、本当はもうその足が地面を確かに踏みしめているのかわからない不安定さがあって、クロードの命とともにイヴの質量も抜け落ちてしまったんじゃないかって思わせる虚がそこにあった。

 速記者ギイの存在意義は、ただでさえ事象をその通りに表現するのに言葉はなにも足りないのに、途中で居なくなるし居ても手を止めてしまう、取りこぼしてしまう、イヴの言葉はどんどん行方不明になる。だからこの場において言葉には真実などというものはなく、ただ残すことにのみ特化しているんだと気づかせてくれる事かなあと思う。井澤勇貴さんのギイはふてぶてしくて狡猾で強かな仕事できる感じがして悪く言うといけ好かない男で、2019年Cyan版の川野直輝さんのギイの従順ででも少しおっちょこちょいな子犬っぽい感じとは全然違って面白かった。

 

アンカル『昼下がりの思春期たちは漂う狼のようだ』観劇感想

 2023年7月5日、東京芸術劇場シアターイーストにて、アンカル『昼下がりの思春期たちは漂う狼のようだ』を観劇。

 ツイッターで感想を見かけて面白そうだったから昨日の夜にチケット取って見てみた。見ながらノットフォーミー作品かもと思ったんだけど、気圧で頭が痛い中で見たせいかもしれないし、さらに幕間で熱が冷めたのもあるかもしれない。こういう役者の熱量が第一に来て勢いとテンションで魅せる感じの作品は一幕物のほうが、見ている私の持続力としてそのまま乗り切れる気がする。大人数が躍動するのにきちんと整理された動きや振り付けで見応えがあった。

 ありがちと思えることがものすごく過剰に描かれてるようだった。人間の乱暴さが中学生という設定のせいで無邪気さのように見えそうだけど、何も無邪気なんかじゃなくて、人間は大人だろうが子供だろうが自分の加害性には気がつけないで、自分が正しいと思い込みながら相手をどこまでも追い詰めたり傷つけたりする。それが目の前でまざまざと見せつけられてしんどかった。

 少女や女のミソジニーを男が描いてくるの結構きついなあと感じた。特にソジンのオンマの描写は一人のキャストを立てずに様々なキャストが同じワンピースにショールを羽織って口々にオンマの言葉を発する。恨み言や憎しみや痛みや支配や呪いを吐く。女同士の嫉妬や上下関係なんかもきつかった。抑圧されていた側が抑圧する側に回れた瞬間にそうしてしまうのはおそらく素朴な欲求の発露なんだろうというのは想像できる。彼らを中学生の子供であるのを前提として、成長過程で大人から吸収した価値観が出てくる。本来は個人の問題じゃなくて、抑圧を、権力志向の、権威主義の肯定をし続ける社会の問題なんだけど、それが子供のコミュニティでも再生産されるのが、大人の肉体を持ってる役者から発せられるのがグロテスクだなあと思う。

 あとまあ男の加害描写は比較的無邪気そうに描くのに女の加害描写は妙にねちっこくてウワってなった。この加害描写を"いじめ"とか"からかい"とか思ってそう。犯罪です。

 トランス(作中ではトランス男性)への加害および偏見を助長する描写が何度も、なんのフォローもなく出てくるので、トランス差別が吹き荒れて最悪だった6月のプライドマンスの直後にこれを見るの、生きているのやめたくなるなあというのがシンプルな感想。制作陣はこんなミスジェンダリングの連呼をうっかり当事者が見たら死にたくなるというのが想像ができた上でこの表現をしているんだろうか。もしそうなら観劇前に注意喚起が欲しかったし、そうでないなら考えてほしい。未成年の青春時代の青い痛みのエモーションのひとつとして消費するには加害性が強すぎると思うので、トランスおよびノンバイナリーの方は不用意に見ないほうが良いと思う。

 作中で当時のことを10年前って言うからむかしのはなしとして描いてるのはわかるけど、それでも男は女はっていう古臭い固定観念で色々言ってるのが結構しんどいし、数少ない大人が教師という立場を利用して子供に手を出してるのもしんどい。子供のほうが愛想を尽かしたけど、大人が頑張れよって気持ちになった。

 全体的に親や教師なんかの身近な大人からケアを受けられなかった子供や、属性による差別によってやはり周囲からケアを受けられずにいる人達の苦痛が、仕方がない事のようにも受け取られかねない表現が、作中での批判性のなさが、見ていてどんどん苦しくなってしまった。虐待を受けてる子供の話が二つも三つも並列で描かれるのつらいな、現実でもこうして死んでしまう子どもがいるんだろうと想像してグロッキーになる。最低の社会のツケを支払わされるのは一番弱い立場の存在だ。あと苦しんでる男をケアする女を見るとウワってなるから、ヤンキー二人の子供同士なのにケアをする女になりそうで警戒してしまったんだけど、UFO見に行く三人とか演劇部の子たちみたいな恋愛にならない関係性が清々しくて見ていて好きだった。

 最後に大人になったゲンと失踪したソジンが10年ぶりに再会したの、本当に再会したのかゲンの見た夢なのか幽霊みたいなものなのかわからないなあと思った。ゲンがソジンからもらった本をなんども読み返し続けて、その夢みたいな出来事を夢想して、本当は今もゲンはたった一人かもしれない。

 

『ガール・ピクチャー』感想

3人の女の子達それぞれに、すこしずつ10代の頃の自分の成分を感じられて、でも今の価値観で生きてて、みんな愛しくて大好きで泣きたくなるような映画だった。

3度の金曜日で3人の女の子達の人生が激動する。あっという間なのにひどく鮮やかで痛くて苦しくて、でも3人ともが自分で自分がどう生きていくのかを、その一歩を踏み出し始める。みんな、自分の主導権を自分で持って生きていくことを決める。私が彼らの年齢のころ、こんなにしっかりはしていなかったな。

ミンミとエマの出会いは最悪で、フィギュアスケート選手のエマがカロリーや中身を気にしながらスムージー選びに悩んでる姿を見て意地悪げに笑うミンミに対して「私のことをよく知らないくせに馬鹿にするな」ってハッキリというエマは格好良かった。その後すぐパーティで再会した時には、あっという間に距離を詰めて2人で抜け出して踊ってキスしてセックスするのはびっくりした。(でもまあ世にあふれる異性愛も特に深い説明も意味もなく一瞬でくっつくので、女女の恋愛でもこのスピード感は別にあってもいいよなと思う)

ロンコは好きな男の子に近づきたい、上手くセックスができるようになりたいと思いつつ、男の子といても何も感じない自分はおかしいんじゃないかと悩む。男の子とのセックスに"失敗"ばかりで、自分は普通じゃないと落ち込むロンコにミンミが「あんたは女神よ」って言うシーンが好きだった。あと後半で怒鳴り合いの喧嘩をして、お互い容赦なく相手の痛い所をついて傷つけ合うのに、それでも次の瞬間には駆け寄って抱きしめ合うシーンが好きだった。

ミンミが母親からの愛情に飢えてて、好きな人や大事な人をどうしてもわざと傷つけてしまう所を自分でも自覚してて、自分でもどうにかしようと薬も飲んでて、やるせなくてたまらなかった。母親からの電話で約束していた義弟の誕生日パーティを、プレゼントも用意して、恋人のエマも連れて行ったのにすっぽかされて、どうしようもなく悲しい気持ちが吹き荒れてるのに、母親とその家族の前では笑顔でやり過ごしてそっといなくなるのが辛かった。母親に直接向けられない思いをずっと自分の中に閉じ込めてるから、余計にコントロールが効かなくて自分を傷つけてしまう。ロンコとの喧嘩で警備室に呼ばれ事情を聞かれるシーン、ミンミが母親からの愛情に飢えてて試すようなことをしてしまうのかな、ということが示唆されてて、乞うて乞うてようやっと現れた母親に自分の寂しさを吐き出すのは、子どもが親に甘すぎる優しすぎるって思ってしまった。

エマはずっとスケート一筋で脇目もふらずにやってきたが得意のトリプルルッツが跳べなくなる。そんな時にミンミと出会い、スランプ状態のスケートからミンミとの恋やセックスに逃避する。ミンミはエマとの関係が深くなっていくにつれ、エマから離れようとする。

このふたりの恋愛が途中でこじれていくその障害が、同性愛だからではなく、それぞれの人生が抱えている個々の問題によって拗れ、ふたりが個々に自分がどうその障害に(エマはスケート、ミンミは母親との関係性)向き合うかによって解決に向かうのが良かった。

ロンコが男の子と恋愛やセックスがどうやったら上手くできるようになるか、実践でもあり実験のようにパーティを渡り歩いて試していくの、結構辛くて、でも最後に男の子を前に「キスもセックスもしたくないかもしれない」って自分のことを信じられるようになるのが嬉しかった。私は恋愛をしない人間だけど、やっぱり昔は自分がおかしいのかも、とかまだ出会ってないだけかもと疑っていて、でも実践で試すような勇気もなかった。思考実験のようなことはしたことがある。けどただ悲しかった。今はもう、異性愛規範や恋愛伴侶規範を当たり前とする社会と人々によって疑わされていただけだって思うようになったけど、彼らと同じ年の頃は辛かった。

エマがミンミに「運命の出会いってわかる?私達よ!」って憤りのように熱く告白するシーンがとても好きだった。作品の意図とは違うかなと思うけど、ミンミとエマの2人の恋愛が運命だと言うなら、きっとミンミとロンコの友情もまた運命だったと思うし、この世の女と女の恋愛や友情や様々な関係性が、何に邪魔されることなく運命の出会いだと肯定されるような気持ちになった。

作中けっこう下ネタが多いしセックスシーンも多かったけど、インティマシーコーディネーターが入って撮影されたということがパンフレットに書いてあって大好きポイントがさらにアップした。最高。

女と女の恋愛とセックスも、女が自分は男と上手く恋愛やセックスできないけど上手くやれるようにしようと実践してみた結果、キスもセックスもしたくない人間かもって普通にたどり着くのも、どっちも当たり前に描いてて、クィアで流動的なティーンの性のあり方を軽やかに描く青春映画最高すぎんか?日本でこういう肯定感を得られる機会ってほとんどない。今まさに彼らと同世代の人達にも出会ってほしい映画だなあ。

 

Endless SHOCK Eternal 2023 観劇感想(Wキャスト佐藤勝利/前田美波里)

2023年4月27日、帝国劇場にてEndless SHOCK Eternal(Wキャスト:佐藤勝利前田美波里)を観劇。

SHOCK見るときいつも思うんだけど、客席でオーケストラピットからオケが高鳴るのを聞きながら自分の胸も心も一緒に高鳴ってくのが、劇場の一部になったような、もしくは劇場に住みついた亡霊になったような感じがして大好きだ。

今年のSHOCK、光一さんが本編とEternalの同時上演&ダブルキャストなんてことをするから4種類全部見たすぎてどうしようもないのに1公演しか取れず……。いつもなら1公演取れたら万々歳なのに全部見たい欲が溢れてしまってこの野郎〜!ぜんぶ光一さんのせいです。

Eternalも良いんだけどやっぱり本編が見たすぎる〜!!!となった。Eternal優しいんだもん、本編の残酷物語を見てえ……になる。でも前回見れなかったHigherの新演出バージョンを見られて嬉しかった。(これは去年の感想→https://inclusionbox.hatenablog.com/entry/2022/05/05/115946

新演出バージョンのHigher、もうこれEternalで一番良いシーンだと思う。個人的にHigherは本来本編で最も残酷なシーンだと思ってて、その残酷さが好きだった。ライバル役がどう足掻いたって届かない憧れの光が、自分の過ちの象徴が、そんな想いをまるで慮らずにいつもの調子で手を差し伸べてくる、こっちに来い一緒に踊ろうと。戸惑い痛みに耐えながら耐えきれずに逃げてしまうライバル役をよそに、仲間たちは光に吸い寄せられるようにコウイチの元へ誘われ、共にまばゆく光り輝きながら笑ってダンスする。光と影、ふたりの心が交わらない断絶のシーン。それがEternalではふたりの心が交わる夢のような希望あふれるシーンになる。本編とEternalではHigherのシーンの意味がきれいに反転する。面白いなあ、これ去年公演期間中にいきなり思いついて変更になったとは思えないほど"正しい"シーンになってる。Eternalは本編の3年後に過去を回想し、その時の想いや夢を具現化してみんながコウイチの呪縛から解き放たれる成仏するためのストーリーだから、このHigherの方が今までのバージョンよりめちゃくちゃ正しく見える。光一さんが去年演じながらこのビジョンが見えて即変更したのもうなずけるシーンだった。ショウリがコウイチを通して光一さんに見せたビジョンなのかもしれない。

SHOCK見た人の感想でちょいちょいストーリーがないってのを見かける時あるんだけど、ショー要素が多いミュージカルだし不可思議なシーンがあるのは確かなんだけどストーリーはあるんだ〜弁明させてくれって気持ちになりつつ、でもその人にとってはその感想が正解だから何も言えねえ……になる。ここ数年のSHOCKは無粋なくらい説明過多だと個人的には思うけど、ちょいちょいストーリーがないって感想が見かけるくらいだからもしかしたらこれでも足りないのかもしれなくて難しい。チケット取れないしそう何度も見れるわけじゃない作品でのわかりやすさはある程度必要だし。

父殺しの物語で殺される父の方が主役で死んだのにいつまで経っても出ずっぱりなので、SHOCKって変なストーリーではある。主人公交代の話なのに交代せずに死人がずっとそこにいるからな。何度も言ってるけど私はライバル役がSHOCKにおける本来の主役と思ってる、殺す側なので。

光一さんがインスタに書いてる、Endless SHOCKのこの裏設定好きなんだ。カンパニーの主要メンバーは、オーナーの実の娘のリカ以外はみんなオーナーに引き取られた孤児で、幼なじみのように兄弟のように育ってきたってやつ。これ毎回パンフレットとかに載せておいてもいい設定だよなあと思う。

https://www.instagram.com/p/Cr2g2F_LcgP/?igshid=NTc4MTIwNjQ2YQ==

 

ミュージカル「NOW LOADING」観劇感想

ミュージカル「NOW LOADING」の配信を見た感想。

ツイッターのTLに流れてきて話題になってて気になったので見てみたんだけど、すごく良かった。

この世はアロハシャツ着て歌って踊る、甘い現実逃避行だけじゃだめなのかな。私はぜんぜん駄目じゃないと思うんだけど。こんな墓場や地獄から、ちょっと窓から抜け出して現実逃避行にしけ込もうよ。

ブラック企業パワハラされまくって休職中のゲーム配信者ジョニと、ひょんな事から一緒に配信することになったゲーム初心者でスポーツマンのTAI、顔も知らずに出会ったふたりの交流と疑念と秘密が明かされる物語。

自分が誰かにした行いが、巡り巡って自分に帰ってくるような気がする。罪悪感と自己憐憫とが自分に呪いをかけてくる。自分の苦しみから逃げたくて、誰かを同じ苦しみを与えてしまうのって本当に苦しくて怖くて、でも自分が雁字搦めだからどうにもできなくて、見ていて涙が出そうだった。

現実のパワハラとゲームの中の銃撃戦や地雷がリンクしてるようで、銃を乱射する音のゾワッとする感じと「男を見せろよ」って怒鳴られたり酒を強要されたり脅かされる感じは似ている気がした。ゲームの中なら死んでもリセットできちゃうし、なんなら別に死なないんだけど、でもジョニはTAIを回復しに駆けつける。非現実の場所でなら自然とケアをする。そうやって自分が誰かにした行いが、巡り巡って自分に帰ってくる。良いことも悪いことも。

ジョニがTAIをパワハラしてきた先輩かと疑念を抱くシーンから、実はTAIはジョニが飲み会で寝たフリをしたせいで先輩から無理に酒を飲まされ、仕事もきちんと教えてやらなかった後輩だったと判明するシーンはドキドキした。バーチャルの世界ではケアしあい笑い合ってたふたりが現実世界に痛みと恐怖の感情へ反転するのと、疑念と真実・加害者と被害者が反転して、怖かった。

「男を見せろ」みたいな、謎の「男らしさ」を強要する古臭くて悪い意味での体育会系な社会がどれほど有害かって思う。男が女にケア労働を求めがちなのってこの謎のらしさを正当なものだと思い込んでるから。性別二元論自体がクソだけど、性別役割分担意識って本当にクソ。こんなことしてるから、犠牲の連鎖が終わらせられない。自分の受けた苦しみを誰かに背負わせてひとりで逃げたくなる。みんなで一緒に逃げようよ、女が女のケアできるように、本当は男は男同士でケアし合えるし、誰だって本当は互いに思いやって生きていけるはず。そんな希望を見せてもらえた。

ふたりの未来を想像すると、ここで終わりここが始まりだし、ちょっとこの墓場で地獄な世の中からアロハ着て抜け出して歌って踊ろうよってなる。自分たちに不当に強さを求め「男らしさ」を強要する社会から抜け出して笑い会える場所に行けるんだって。

画像は公式HP(https://amoshogo.com/nowloading/)の転載可能舞台写真から好きなシーンの写真を拝借しました。

 

映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」感想

昨日、映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を見てきた。

心がぐにゃぐにゃになってしまった。どうしよう。わかるとかそんなの軽薄だから思いたくないのに、泣きたくないのに涙が出て、でもこれ届かない人にはたぶん全然届かない映画じゃんて思った。それでも届きますように、そういう祈りの映画だった。全然まとまんないけど、ぐにゃぐにゃのままの感想文です。

ずっと、安易な共感が一番暴力的だと私自身が思ってんのにどうしてこんなに涙が出そうになるんだろうって、悔しくなりながら見ていた。

ぬいサーの彼らの、人と人とのたどたどしくて気まずくて全然流暢じゃない途切れ途切れの会話が、ぬいぐるみ相手だとやわらかくおだやかでぽつぽつとでも流れるように話せたりする。傷つけたくないと傷つきたくないの葛藤が人よりもぬいぐるみのほうが和らぐからかな。

私なんかは、対面の人間じゃないツイッター上だと、色んな人が見ててもどうせ見て見ぬふりか見当違いの言いがかりつけられるかだから、親や友達にも真正面から言ってないようなAスペクトラム的な自分の事もわりかし何でも言っちゃうんだけど、結局後悔して消したりもする。脳内にある言葉を吐き出さないとどうにもならない時があって、でも言葉として表に飛び出した瞬間に自分の中にあったときと違う色とか形になってしまうから、言葉そのものがもう難しくて、そのうえ人との対話なんてもっと困難だなあと思う。

痛みが増えてくばかりでもやさしくしたい、傷つけたいわけじゃないけど説明を求められて話をしたら聞いた人は傷つくかも、自分が傷ついているとき自分は加害者じゃないと思いこんでいられる、"普通"の中にいられたら揶揄されることも異常だと思われることも気を使った白々しい空気にさらされることもない。自分の中にいろんな言葉がうるさいくらいに渦巻いて迷って何も言えなくなって、でも飛び出してった言葉が酷いことをしていくときもあって、どうしたらいいのかわからなくなる。

「優しさと無関心って似てるよね」と西村が言ってた。彼氏じゃなくて彼女がいるって言うと、"尊重してます"みたいな空気を出されちゃうのが嫌で、ぬいサーは他人に関心がないからまだマシだって。ぬいサーなくならないで欲しいなって思いながら、西村にとっては普段さらされる場所より優しくて"まだマシ"な場所なんだよな。これは多分危機感で、このままじゃあんまり良くないって思ってるんだ。

ぬいサーってセーフスペースなのかなと思った。自己対話の場所、自分の輪郭を掴むための場所、他者との対話への足がかりの場所、なのかな。傷つけられない場所、優しくて無関心な場所、停滞の場所、傷を見つめる場所、傷ついた心と自分自身を分けるための場所、なのかな。

嫌だな、共感なんて酷いことしたくない。けどなんかどれも身に覚えがあって涙がボロボロ出てきて嫌だった。

ぬいぐるみを洗うシーンが度々出てくる。ちょっと怖いシーンだった。ぬいぐるみは抵抗できないまま水につけられて洗われる。水の中に沈められて溺死させられてるみたいにも見える。優しさや慈しみがそのまま優しさや慈しみとして映るかはわからないし、相手にとってそのように受け取られるとも限らないんだよなあと思った。

ナナくんが作ったおばけちゃん、かわいいな。身体よりも立派な両腕は、ナナくんを抱きしめてくれるための腕で、ひどい言葉から耳をふさいでくれるための大きな手なんだな。

幽霊になりたくて髪を染めたナナくん。別に死にたいわけでもないけど、居なくなりたいときはいくらでもあって、今だって透明で見えないことになってたりするのに、違うとこだけはチクチクなんか言われたりして、いい感じの透明人間ではないから、だから幽霊みたいになりたいんだろうな、この世界が社会が自分をそのまんまでいさせてくれないから。童貞だとか処女だとかさ、そんな恋愛伴侶規範に塗れた対人性愛中心主義の奴らが勝手に決めた価値基準で他人の身体のこととか愛情のあり方とか、とやかく言うんじゃねえよ。でもナナくんは優しくて「ひどいことを言うやつはもっとひどいやつで居てくれ」って思うんだよな。ひどいことを言う人が別に普通に優しくていいやつなの、そんなのずるいよな。私もそっちに行きたかった。

たぶん、白城からしたら(白城に共感や同調できる人は)、好きでもないくせに恋愛に参加してみたくて、自分を選んで恋愛をしてみようとしたナナくんはひどいことをする人だと、そう思われるんだろうなって感じてしまうんだけど、でも恋愛をしない人間を責め立てる世の中に無批判なくせに?とか私は意地が悪いから思ってしまう。ひどいのはどっちだよって。完全に被害妄想だけど。

麦戸ちゃんとナナくんの、初めての対話のシーンが良かった。対話って、本当はまず相手の話をずっと聞かないといけないんだなって。ぬいぐるみじゃないから、つい言葉に反応して、最後まで聞かずになにか言ってしまう事があるけどそうじゃなくて、まずは全部聴き切る。全部話してもらってようやく言葉を返してもよくなる。メッセージアプリで「大丈夫?」って聞いて「大丈夫」って答える、大丈夫って言わせてしまったから今度はきちんと話を聞きたいって麦戸ちゃんがナナくんのところにやってきて、話をして話を聞いて、わたしたちは全然大丈夫じゃないねって、ぬいぐるみにしゃべる自己対話から大事な友人との対話に一歩踏み出す。相手の痛いこととか怖いこととか、それを知ったら身近になってしまう、気に病んでしまう、それって重たいんだけど、そうやって生きてくしかないんだよな。

白城ゆい、ごくごく普通の人間の女の子なところが良かったな。別に特別悪い子でもなく普通にいい子で、ニコニコしていたいし人にもしていてほしい、社会に批判的な言葉のその表面の乱暴さを拾って嫌だな〜って思ってて、喧嘩や揉め事が嫌いで、別のサークルの中でセクハラっぽい事されても上手く受け流しながら生きてて、男社会で生きてく諦めがもう身に染み付いてて、声を上げて抗うのも馬鹿らしいと思ってて、恋愛しない男と付き合ってみて謝られても恋愛しない人もいるよって声かけられるくらい優しくて、それでもぬいぐるみサークルにいる。「ふたりを優しさから開放したい私はぬいぐるみとしゃべらない」ぬいぐるみとしゃべると、どんどん優しいだけの人になってくからそう思うんだろうか。抗っても抗わなくても痛いのは同じだからだろうか。

見終わったあとに改めてポスター見ると、なんかすごいかなしくて、かなしいのかな、やるせない?かもしれない、この中で一番"普通"の女の子がこっちを見てて、それでもここにいる意味がやるせなくて、やっぱりかなしい。優しい場所が別に今すぐ自分を救ってくれて自分が大丈夫になるわけじゃない。そんなことは知らずに生きていけたらいいのに。それでもここにいるみんな、この優しい場所を必要としている。ぬいぐるみとしゃべったら、今度は人間と対話をして生きていくために。