昨日、映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を見てきた。
心がぐにゃぐにゃになってしまった。どうしよう。わかるとかそんなの軽薄だから思いたくないのに、泣きたくないのに涙が出て、でもこれ届かない人にはたぶん全然届かない映画じゃんて思った。それでも届きますように、そういう祈りの映画だった。全然まとまんないけど、ぐにゃぐにゃのままの感想文です。
ずっと、安易な共感が一番暴力的だと私自身が思ってんのにどうしてこんなに涙が出そうになるんだろうって、悔しくなりながら見ていた。
ぬいサーの彼らの、人と人とのたどたどしくて気まずくて全然流暢じゃない途切れ途切れの会話が、ぬいぐるみ相手だとやわらかくおだやかでぽつぽつとでも流れるように話せたりする。傷つけたくないと傷つきたくないの葛藤が人よりもぬいぐるみのほうが和らぐからかな。
私なんかは、対面の人間じゃないツイッター上だと、色んな人が見ててもどうせ見て見ぬふりか見当違いの言いがかりつけられるかだから、親や友達にも真正面から言ってないようなAスペクトラム的な自分の事もわりかし何でも言っちゃうんだけど、結局後悔して消したりもする。脳内にある言葉を吐き出さないとどうにもならない時があって、でも言葉として表に飛び出した瞬間に自分の中にあったときと違う色とか形になってしまうから、言葉そのものがもう難しくて、そのうえ人との対話なんてもっと困難だなあと思う。
痛みが増えてくばかりでもやさしくしたい、傷つけたいわけじゃないけど説明を求められて話をしたら聞いた人は傷つくかも、自分が傷ついているとき自分は加害者じゃないと思いこんでいられる、"普通"の中にいられたら揶揄されることも異常だと思われることも気を使った白々しい空気にさらされることもない。自分の中にいろんな言葉がうるさいくらいに渦巻いて迷って何も言えなくなって、でも飛び出してった言葉が酷いことをしていくときもあって、どうしたらいいのかわからなくなる。
「優しさと無関心って似てるよね」と西村が言ってた。彼氏じゃなくて彼女がいるって言うと、"尊重してます"みたいな空気を出されちゃうのが嫌で、ぬいサーは他人に関心がないからまだマシだって。ぬいサーなくならないで欲しいなって思いながら、西村にとっては普段さらされる場所より優しくて"まだマシ"な場所なんだよな。これは多分危機感で、このままじゃあんまり良くないって思ってるんだ。
ぬいサーってセーフスペースなのかなと思った。自己対話の場所、自分の輪郭を掴むための場所、他者との対話への足がかりの場所、なのかな。傷つけられない場所、優しくて無関心な場所、停滞の場所、傷を見つめる場所、傷ついた心と自分自身を分けるための場所、なのかな。
嫌だな、共感なんて酷いことしたくない。けどなんかどれも身に覚えがあって涙がボロボロ出てきて嫌だった。
ぬいぐるみを洗うシーンが度々出てくる。ちょっと怖いシーンだった。ぬいぐるみは抵抗できないまま水につけられて洗われる。水の中に沈められて溺死させられてるみたいにも見える。優しさや慈しみがそのまま優しさや慈しみとして映るかはわからないし、相手にとってそのように受け取られるとも限らないんだよなあと思った。
ナナくんが作ったおばけちゃん、かわいいな。身体よりも立派な両腕は、ナナくんを抱きしめてくれるための腕で、ひどい言葉から耳をふさいでくれるための大きな手なんだな。
幽霊になりたくて髪を染めたナナくん。別に死にたいわけでもないけど、居なくなりたいときはいくらでもあって、今だって透明で見えないことになってたりするのに、違うとこだけはチクチクなんか言われたりして、いい感じの透明人間ではないから、だから幽霊みたいになりたいんだろうな、この世界が社会が自分をそのまんまでいさせてくれないから。童貞だとか処女だとかさ、そんな恋愛伴侶規範に塗れた対人性愛中心主義の奴らが勝手に決めた価値基準で他人の身体のこととか愛情のあり方とか、とやかく言うんじゃねえよ。でもナナくんは優しくて「ひどいことを言うやつはもっとひどいやつで居てくれ」って思うんだよな。ひどいことを言う人が別に普通に優しくていいやつなの、そんなのずるいよな。私もそっちに行きたかった。
たぶん、白城からしたら(白城に共感や同調できる人は)、好きでもないくせに恋愛に参加してみたくて、自分を選んで恋愛をしてみようとしたナナくんはひどいことをする人だと、そう思われるんだろうなって感じてしまうんだけど、でも恋愛をしない人間を責め立てる世の中に無批判なくせに?とか私は意地が悪いから思ってしまう。ひどいのはどっちだよって。完全に被害妄想だけど。
麦戸ちゃんとナナくんの、初めての対話のシーンが良かった。対話って、本当はまず相手の話をずっと聞かないといけないんだなって。ぬいぐるみじゃないから、つい言葉に反応して、最後まで聞かずになにか言ってしまう事があるけどそうじゃなくて、まずは全部聴き切る。全部話してもらってようやく言葉を返してもよくなる。メッセージアプリで「大丈夫?」って聞いて「大丈夫」って答える、大丈夫って言わせてしまったから今度はきちんと話を聞きたいって麦戸ちゃんがナナくんのところにやってきて、話をして話を聞いて、わたしたちは全然大丈夫じゃないねって、ぬいぐるみにしゃべる自己対話から大事な友人との対話に一歩踏み出す。相手の痛いこととか怖いこととか、それを知ったら身近になってしまう、気に病んでしまう、それって重たいんだけど、そうやって生きてくしかないんだよな。
白城ゆい、ごくごく普通の人間の女の子なところが良かったな。別に特別悪い子でもなく普通にいい子で、ニコニコしていたいし人にもしていてほしい、社会に批判的な言葉のその表面の乱暴さを拾って嫌だな〜って思ってて、喧嘩や揉め事が嫌いで、別のサークルの中でセクハラっぽい事されても上手く受け流しながら生きてて、男社会で生きてく諦めがもう身に染み付いてて、声を上げて抗うのも馬鹿らしいと思ってて、恋愛しない男と付き合ってみて謝られても恋愛しない人もいるよって声かけられるくらい優しくて、それでもぬいぐるみサークルにいる。「ふたりを優しさから開放したい私はぬいぐるみとしゃべらない」ぬいぐるみとしゃべると、どんどん優しいだけの人になってくからそう思うんだろうか。抗っても抗わなくても痛いのは同じだからだろうか。
見終わったあとに改めてポスター見ると、なんかすごいかなしくて、かなしいのかな、やるせない?かもしれない、この中で一番"普通"の女の子がこっちを見てて、それでもここにいる意味がやるせなくて、やっぱりかなしい。優しい場所が別に今すぐ自分を救ってくれて自分が大丈夫になるわけじゃない。そんなことは知らずに生きていけたらいいのに。それでもここにいるみんな、この優しい場所を必要としている。ぬいぐるみとしゃべったら、今度は人間と対話をして生きていくために。