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私の内包物をつれづれと

good morning N°5『失うものなどなにもない 』観劇感想

2023年12月20日、小劇場B1にてgood morning N°5『失うものなどなにもない 』を観劇。

前作の赤裸裸が面白かったので次も絶対見ようと思って楽しみにしてたんだけど、今作も面白かった〜!!!人間の感情ってめちゃくちゃ勝手でクソみたいなんだけど、その身勝手さは自分だけのものなんだよな。他人には理解できないし、それをあげられもしない。

good morning N°5の舞台なので、開演前に澤田さんが練り歩きながら、観劇中に話してもいいし拍手してもいいしクラッカー鳴らしてもいいし歌ってもいいし奇声を上げてもいいし電話に出てもいいし出てってもいいし自由に観劇していいよってお話していて、始まる前から客席がすでにワイワイして笑ったりリラックスしたりしていて楽しかった。

 

前作の赤裸裸のときも思ったけど、目の前で起こっている演劇に、その事象に目を凝らしているはずなのに、何時の間にか自分のことを見つめているような気がしてくる。他人の感情が行ったり来たり歌ったり叫んだりして入り乱れてるのを見るうちに、突きつけられてるのは自分のような気がしてきて、いつの間にか自分のこころの、感情の身勝手さに振り回される。全部感情の話のような、願いの話のような、祈りの話のような、救済の話のような、そんな感覚になっていく。

狭い地下の劇場で、歌ったり踊ったり叫んだり天井から縄を伝って降りてきたり人間が裸でジオラマになったり全員鼻くそ穿ってたり、なんじゃこりゃって笑っちゃうんだけど、全然わからなくてわからないのに面白くって、わからないのに悲しくなって、勝手に悲しくなってる自分の身勝手さに失望したりする。

ホテルの地下で客引きしてる娼婦の佐離子と、その自称親友で佐離子の過去をモデルに勝手に小説にしている実花と、佐離子の妹の増子の3人の関係性がこの舞台の中で特別こころに残った。

実花は佐離子に「みんな私を忘れないよ、恨みは記憶だから」って言って、「安心しな、私は一生アンタを忘れないから」と言う。佐離子が「恨まれてるねアタシ」という声はどこか甘くて、悲しいのに嬉しいような響きだった。忘れられた人間が最も哀れだと思って生きてるから。増子は佐離子に「海に沈んだらええ」と言い、本人のいない所で「好きやから、悲しみの中にいる姉さんが」「ウチが関西弁で話しかけてる時の姉さんの悲しそうな顔!見たやろ、綺麗かった」と話す。佐離子は増子に「嫌いになってもいいから忘れないで」「何を失ったってへっちゃら、アナタの記憶に残れれば」と言う。

作中ぶちゅぶちゅ男とキスしまくるし、この3人は言ってしまえば1人の男を奪い合った構図になるわけなんだけど(佐離子が実花から奪い結婚して、その佐離子から増子が奪った)、その奪い合った男である藤吉はこの3人の中でまるで重要ではないところが良かった。傷ついた、傷つけた、悲しんだ、悲しませた、その循環の中で忘れられなくなっていく、忘れられたくなくなっていく事の方がよっぽど重要で、自分にも相手にもこびりついていて。

男たちにとって、一本のマッチ5,000円たった9秒の明かりを灯して佐離子のスカートの中に潜り込む瞬間は、マッチ売りから買ったマッチのように温かく見たいものだけが見える時間なんだろうか。佐離子がかつて経験した忘れられない体験のように、ふと並んだ行列の先の一生忘れられない出会いという体験を、自身が与える側になりたかったのは、自分に残された階段がもうあと死と忘却のみだと追い詰められてたから?

盲目の客、奥村がゴールドカードになるまで通い詰めて、スカートの中に身を隠しながら明かりを灯すのは、佐離子にとってどれだけの価値があったんだろう。誰かの記憶に残ってやったという充足があっただろうか。

「何も持ってない人間、豊な経験も財産も知識も知性も感性も名声も人脈も優しさも 美貌もデリカシーもアイディアも社会性も健康も夢も希望もユーモアも毒も、何も持ってない人間が、何を失うっていうんですか?」

「失うものなどなにもない、そんな事を言えるのはいっぱい色々持ってる人間の発言だから」って増子が言う。でも死と他人からの忘却以外にもう価値を見いだせなくなったなら、何を失ってももう感知できないんじゃないか。というか死んだらもうそういう他人の感情を気にする自分自身からも解放されるはずで。まだギリギリ解放されていない生きている佐離子だから「何も持っていない人間が"いた"ということを忘れないでよ」と懇願する。

現実の世界(なのか正確にはわからないけど)の佐離子の仕事の場面と、ホテルの場面と、小説の中の戦時下と、事故が起こった飛行機の中と、全部が混沌と入り混じりながら全部が同じになっていく。

ホテルのロビーでジオラマになった裸の女の体から、その崖を登って海へと飛び降りる佐離子、その後、飛行機の中のシーンは佐離子がどんどん解放されていくようで、勝手に悲しかった。言葉がどんどん素直になっていって、無邪気になっていって、誰かに気を使って黙ることもなく子どものように思い浮かぶままにポンポン喋るのが、自由になっていくのが、死んでいくみたいで怖かった。佐離子が生の最後の最後で懇願するのが忘れないでって事で、それを私が勝手に悲しがってることがあまりにもグロテスクで、なんだか涙が出そうだった。

いろんな悲しみがあるよね、と奥村が言った。人間は多種多様な感情の上に成り立って、地球上に78億人いる各人が多種多様な感情を持ち合わせているとなると地球上にどれだけの感情があるのか。だから自分に照らし合わせた答え合わせではなく、持ち得たことのない感情に思いを巡らせながら想像したいよねと。解放されていく佐離子を悲しいと思った、その私の悲しみはどこから来たんだろう。他の人はどんなふうにこのラストを受け止めたんだろう。全然わからないから好き勝手に拾い読みして補完して、全然意図しない読み方をしてるのかもしれない。あと戦争反対ってセリフがサラッと出てきたけど、ほんとにね、戦争反対くらい普通に言いたい。

今作も面白かったので次回作もたぶん見に行きます。狭苦しい小劇場が似合うこの世界観にまた浸りたい。

小劇場B1の催し物掲示板、good morning N°5「失うものなどなにもない」のポスター