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私の内包物をつれづれと

アンカル『昼下がりの思春期たちは漂う狼のようだ』観劇感想

 2023年7月5日、東京芸術劇場シアターイーストにて、アンカル『昼下がりの思春期たちは漂う狼のようだ』を観劇。

 ツイッターで感想を見かけて面白そうだったから昨日の夜にチケット取って見てみた。見ながらノットフォーミー作品かもと思ったんだけど、気圧で頭が痛い中で見たせいかもしれないし、さらに幕間で熱が冷めたのもあるかもしれない。こういう役者の熱量が第一に来て勢いとテンションで魅せる感じの作品は一幕物のほうが、見ている私の持続力としてそのまま乗り切れる気がする。大人数が躍動するのにきちんと整理された動きや振り付けで見応えがあった。

 ありがちと思えることがものすごく過剰に描かれてるようだった。人間の乱暴さが中学生という設定のせいで無邪気さのように見えそうだけど、何も無邪気なんかじゃなくて、人間は大人だろうが子供だろうが自分の加害性には気がつけないで、自分が正しいと思い込みながら相手をどこまでも追い詰めたり傷つけたりする。それが目の前でまざまざと見せつけられてしんどかった。

 少女や女のミソジニーを男が描いてくるの結構きついなあと感じた。特にソジンのオンマの描写は一人のキャストを立てずに様々なキャストが同じワンピースにショールを羽織って口々にオンマの言葉を発する。恨み言や憎しみや痛みや支配や呪いを吐く。女同士の嫉妬や上下関係なんかもきつかった。抑圧されていた側が抑圧する側に回れた瞬間にそうしてしまうのはおそらく素朴な欲求の発露なんだろうというのは想像できる。彼らを中学生の子供であるのを前提として、成長過程で大人から吸収した価値観が出てくる。本来は個人の問題じゃなくて、抑圧を、権力志向の、権威主義の肯定をし続ける社会の問題なんだけど、それが子供のコミュニティでも再生産されるのが、大人の肉体を持ってる役者から発せられるのがグロテスクだなあと思う。

 あとまあ男の加害描写は比較的無邪気そうに描くのに女の加害描写は妙にねちっこくてウワってなった。この加害描写を"いじめ"とか"からかい"とか思ってそう。犯罪です。

 トランス(作中ではトランス男性)への加害および偏見を助長する描写が何度も、なんのフォローもなく出てくるので、トランス差別が吹き荒れて最悪だった6月のプライドマンスの直後にこれを見るの、生きているのやめたくなるなあというのがシンプルな感想。制作陣はこんなミスジェンダリングの連呼をうっかり当事者が見たら死にたくなるというのが想像ができた上でこの表現をしているんだろうか。もしそうなら観劇前に注意喚起が欲しかったし、そうでないなら考えてほしい。未成年の青春時代の青い痛みのエモーションのひとつとして消費するには加害性が強すぎると思うので、トランスおよびノンバイナリーの方は不用意に見ないほうが良いと思う。

 作中で当時のことを10年前って言うからむかしのはなしとして描いてるのはわかるけど、それでも男は女はっていう古臭い固定観念で色々言ってるのが結構しんどいし、数少ない大人が教師という立場を利用して子供に手を出してるのもしんどい。子供のほうが愛想を尽かしたけど、大人が頑張れよって気持ちになった。

 全体的に親や教師なんかの身近な大人からケアを受けられなかった子供や、属性による差別によってやはり周囲からケアを受けられずにいる人達の苦痛が、仕方がない事のようにも受け取られかねない表現が、作中での批判性のなさが、見ていてどんどん苦しくなってしまった。虐待を受けてる子供の話が二つも三つも並列で描かれるのつらいな、現実でもこうして死んでしまう子どもがいるんだろうと想像してグロッキーになる。最低の社会のツケを支払わされるのは一番弱い立場の存在だ。あと苦しんでる男をケアする女を見るとウワってなるから、ヤンキー二人の子供同士なのにケアをする女になりそうで警戒してしまったんだけど、UFO見に行く三人とか演劇部の子たちみたいな恋愛にならない関係性が清々しくて見ていて好きだった。

 最後に大人になったゲンと失踪したソジンが10年ぶりに再会したの、本当に再会したのかゲンの見た夢なのか幽霊みたいなものなのかわからないなあと思った。ゲンがソジンからもらった本をなんども読み返し続けて、その夢みたいな出来事を夢想して、本当は今もゲンはたった一人かもしれない。