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木ノ下歌舞伎「桜姫東文章」観劇感想

2023年2月4日、あうるすぽっとにて、木ノ下歌舞伎「桜姫東文章」を観劇!
演出に関しては好みじゃない部分が結構あったんだけど、現代的翻訳をされてもなお、桜姫ってこうだよな!そうだよな!!!って部分を、客に読み違えさせねえぞって作りが好きだった。

今日見てて、演出ってやっぱり好みだよなと思った。古典の桜姫東文章は歌舞伎ならではの種も仕掛けもあるゴージャスで鮮やかなエンタメ性も売りだし、荒唐無稽なストーリーも整合性を無視して突き進む所がある。木ノ下歌舞伎の桜姫東文章は、古典の歌舞伎の持つ派手さによるジェットコースターみたいな感情の起伏を抑えた作りをしていて、あえてローテンションに、種も仕掛けも隠さずあけっぴろげで描いていく事で物語の歪さがより浮き彫りになる感じがした。
個人的には、古典の桜姫みたいにドラマティックな絢爛の中で描かれる残酷物語のほうが好みではある。
今作は、間のとり方が私の体の中に勝手にあるリズムよりも遅くて一幕の途中で寝ちゃったんだけど、二幕ではテンポ感もわかったし、最後どこまで描くのかなと思いながらワクワクして見れたし、ラストで子供と権助を殺した桜姫に演者から放たれた大向う「ハレルヤ!」を聞いてグッと来た。
あの大向うは清玄が言った「女の分際で私を殺した」へのアンサーだし桜姫への祝福だった。女の分際でも男をぶっ殺していいんだよ、踏みにじられたまま生きる必要ないし、意思がないのが女だと思いこんでた愚かな自分を死ぬ前に見つめ直せたら良かったのにね。
劇中での大向うのバリエーションが色々あって面白かった。スガキヤ!とかブルガリア!とかポメラニアン!とか笑った。
木ノ下歌舞伎は完コピ稽古をやるらしいけど、石橋静河さんの桜姫が清玄を殺すシーンと子供に近づけなくされたシーンと権助を殺すシーンはたしかに歌舞伎の仕草だった。
私の中の桜姫東文章が玉様の桜姫と仁左衛門さんの清玄・権助なので、どうしたってあのふたりの桜姫が最高だしずっと脳内に刻まれ続ける作品なんだけど、木ノ下歌舞伎のやる現代への翻訳って本来は松竹とかが真剣にやるべき批判性があって、松竹はちゃんとやってくださいってなった。古典ではその時代背景故に垂れ流してもいいかのようになってる差別やジェンダーギャップの描写を、新作歌舞伎でもそのままのノリで持ち込んでしまうパターンはもうやめてほしいし、それは造り手側が認識できてないからに他ならないと思う。この辺は唐茄子屋の感想(https://inclusionbox.hatenablog.com/entry/2022/10/22/092638)で色々書いたけど、古典でも新作でも、作品に対して現代を生きてる人間が楽しめるだけの批判と再構築があるべきだと思うので。
私が玉様の桜姫を見たときに感じた事を、この木ノ下歌舞伎の桜姫東文章では作品全体で噛み砕いて訴えてたように見えて、特に二幕は桜姫が主体性のない女に見えないように作ってるのかなあと思った。
坂東玉三郎の桜姫は、白菊丸の頃に清玄を置いて先に海に身を投げた時から、どんな状況下でも最後は自分で決める人間性があったし、社会や男達から選ばされる運命を、翻弄されながらも自分で選び直すことで主体性を奪い返し何とか生きながらえてる女だった。
木ノ下歌舞伎の現代に翻訳した桜姫見ると、改めて、江戸時代にストックホルム症候群の女が奪われ続けた尊厳を最終的に男達をぶっ殺すことで奪い返す物語を描いた鶴屋南北ってすげえなって思う。あの時代に意志のある女を描いたんだから。古典では吉田家という家に回収されてしまう結末ではあるけど、木ノ下歌舞伎の桜姫はもう家には帰属しない感じがする清々しいラストだった。

桜姫東文章は歌舞伎の物語としてはかなりフェミニズム的な読み方のできる作品なので、木ノ下歌舞伎では更に踏み込み起伏を減らした描写にして性差別や障害者差別の表現を浮き彫りにしてくのは面白かった。