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私の内包物をつれづれと

モダンスイマーズ『だからビリーは東京で』観劇感想

2022年1月15日、東京芸術劇場シアターイーストにて、だからビリーは東京で を観劇。今年の観劇はじめでした。

ビリー・エリオット公式ツイッターが、この作品の"ビリー"はビリー・エリオットの事だとツイートしていて気になってチケットを取ってみたんだが、観劇できて本当によかった。

主人公の凛太郎と同じくビリー・エリオットという作品が大好きな私は、もう悲しくて苦しくてやるせなくて、ビリーが好きな人、たのむ同じ苦しみを味わってくれ!!!と思った。

何かもう言葉にするのが難しいんだけど、苦しくて悲しくてどうしようもなくて、でも最後にほんの少しだけ許しがあった気がして、私は許されたいんだなと思ったし、許される為にもがいていい気がした。誰かにじゃなくて自分に許されていいと。以下、ビリー・エリオットが好きな人間が、だからビリーは東京でを見た感想。

私はビリー・エリオットが好きなもんだから、どうしても凛太郎の考えを追って見てしまう。

ビリー・エリオットを見てものすごく感動して演劇をやろうと劇団に飛び込んだ凛太郎。何もかも初めてでどんどん新しい事を勉強して挑戦して生き生きとギラギラして、多分劇団員のみんなが劇団始めたばかりの頃みたいな無鉄砲で未来しかない最強の常態だった。

能見が書く劇団の戯曲、難解でよくわからないと定評があり、稽古場のシーンで劇団員がテンポよく文句言い合ってくのが、すでに薄っすらと始まっている軋みのようでいて、でも妙に軽快で、深刻な時も笑ってしまう会話劇でおもしろい。

凛太郎がアングリーダンスを参考にしてやってみたんだと言うとき、劇団員は薄ら笑いしてるんだよね。ド素人がただただやる気満々に空回ってる。ビリー・エリオットのアングリーダンスのシーンは絶望と怒りが爆発するシーンだけど、あれってビリーがいきなり爆発したんじゃなくて、本当は最初から、始まりのシーンからずっと憤りを抱えていた、表現する術を持っていなかっただけで本当はずっと怒ってたというシーンだと私は思ってて、ビリーのようになりたい凛太郎もその術が欲しくて空回ってるんだろうなと思った。

凛太郎がアル中の父親と一年半ぶりに再会したら酒飲んだくれてて、アル中と虐待(と多分DVもあったのだろう)で会ってはいけないことになってるのに実は母親が父親と通じててコロナの給付金手続きやってあげてて、でも父親はその金で禁止されてる酒を飲んで酔っ払ってて、ずっとコロナだったらいいのに、みたいな事言う。(父親は父親でコロナ禍で被害者なんだけど、でもその前にも後にも子供を加害した父親で、余計に辛い。当たり前だけど加害者も時に被害者になりうるし、だからといって加害が許されるわけじゃない)凛太郎は必死に秘密裏に両親を離婚させようとがんばってたのに結局顧みてもらえなくて、何度も何度も殴られて引っ掴まれて倒されて、それまでも再会の度にこの父子はコミュニケーションがズレて断絶してたけど、この長い長い虐待のシーンがしんどかった。辛すぎて普通に加害者と被害者を会わせるな……と考えちゃった。

あと、この父親にお前童貞だろ?風俗行け、東京の女とセックスしろ、お前の歳でセックスもしないなんてってずーっと呪いをかけられてて、凛太郎はドン引きして否定してたのに、結局女にハマるってのもしんどかった。アルコールは父親と同じように酒乱になって暴力振るうかもしれないから叫んで逃げるほどに飲みたがらないけど、女とセックスは怖がらないんだな。たぶん下だと思ってるんなんだなと。

能見の戯曲がうまく続かず、稽古も、劇団員の方向性も噛み合わず結局凛太郎は舞台に立てないまま作品は延期になり、更にコロナ禍になる。

長井はコロナ前では週二だった家庭教師の仕事が、コロナのおかげで100人以上の受験生を抱えるほどになって収入もやりがいも格段に上がって、長年同棲してた真美子にお金を渡して心機一転で別れを切り出すの、めちゃくちゃありそうで笑った。自分一人で金銭面の不安や生活の不安がなくなるくらい収入が得られると、パートナーの必要性って揺らぐだろうし、もうあとは本人の匙加減になるだろうなと思う。長井の場合仕事とお金だけど誰かから必要とされ頼られるようになると、安定するし主導権が自分になるから。

凛太郎がエレクトリシティを歌うところで、もう私も一緒にわあー!!!もう嫌だー!!!ってなってしまった。

コロナ禍で舞台も立てないまま宙ぶらりんでニートになって、彼女と呼べないセフレとも呼べない相手に振り回されて、ウーバーでも大して稼げなくて、しかも事故って、でもその時「自分はこんなところにいたくない、何処かにたどり着く途中のはずなんです」って、稽古までしかできなかった舞台の台詞があの時よりもずっと真に迫って叫べるような、掴めた気がして。でもそんなのは全然錯覚で幻想で、結局何者にもなれはしないんだって。

なんかもう、わかったと思ったらわかってなくて、周囲がわかってくれないのも、なんでどうして理解を求め押し付けるしかできないのかも、ビリーの父親みたいに変化してくれないのも、自分に相手を変えるだけの力がないのも、世界が変わる速度に振り落とされて適応できなくて置いていかれて、自分が嫌だって、何でこんなに嫌な自分なんだって、嫌な自分のままなんだって、ビリーみたいにはなれないんだって。ビリー・エリオットに感動して自分もあんなふうになれたらって、なれない自分が悪いわけじゃないのに、なれない自分が悪いとしか思えない、苦しい、苦しいなあ。凛太郎が、夢を追いかけたビリーじゃなくて、あの終わりゆく炭鉱の町に取り残されたマイケルと重なって見えた。

住吉も長井も真美子ももう劇団をやめるといい、能見の持ってた稽古場も売られて来月には壊されることになって、劇団ヨルノハテが終わっていくその時に、能見が"なんでもないただの自分たちの事"を舞台にしようと言う。凛太郎が劇団面接にやってきて、能見がまた難解な戯曲を書いて、劇団員が今度はみんながわかりやすいのにしようって約束したじゃんって突っ込んで、稽古して、笑って、怒って、不安になって、コロナ禍になって、結局バラバラになるけど、でも確かにここに居た、生きた自分たちを。一番最初のシーンに巻き戻っていく。そこは戯曲の1ページ目だったんだ。

本当は価値のある人間なんてどこにもいないし、価値のない人間だってどこにもいない。能見が言ったように主観しかない。書けないわからないって駄々こねてた能見が、ただの自分達を、何でもない自分達を作品にして、お客さんに見せるためじゃなく自分たち劇団ヨルノハテのため演じることをしようって言った。それは許しだなあと思った。何でもない自分のこと、誰かにとって価値が無いかもしれない自分のこと、例えば最後までやり抜けない自分のこと、途中で諦めた自分のこと、泣いたり叫んだり苦しかった自分のことをちゃんとそのまま許していいんだって思って。それは私が自分で自分に許して欲しかったからなのかもしれない。

 

ここまでの感想にうまく組み込めなかったけど、真美子と乃莉美の二人、ひたすらすれ違う割に結局はお互いがどうしょうもなく特別で、どうでもいいと無視できない存在で、間に長井という男一人挟んでも、結局はそいつを無視してお互いのことに固執してしまうの、女同士の特別な感情が行き来する様が好きだった。滑稽なようでいて自分にとってはめちゃくちゃ真剣で、大嫌いでも許せなくてもたぶん離れられない、簡単に切り離せない関係性があって、好きな男だろうと割り込めないものだった。真美子の決めてる事"自分で選ぶこと"だと言った。乃莉美と離れられなかったのって、乃莉美が自分で決められない子で自分が居ないと駄目だと思い込めたからだよな、主導権が自分でいられたから。それは劇薬だ。乃莉美は自分の名前が嫌いで真美子の名前を羨ましがった、名前もだけどたぶん生き方もだ。自分よりもいつも優先され信用される、自分が決めたことを横取りしておいて我が物顔でいられる事が嫌で嫌で、それでも"わたしたち"を手放せないくらいには憧れていたのかも知れない。

 

コロナ禍で演劇、やる側も見に行く側も責められるよね。やる側も、やっても客は来るのか?利益出るのか?続けられるのか?客に、演者に、感染者が出たらどうする?叩かれるんじゃないか?ってなって当然だし、客だって感染するのもさせるのも不安だし、中止や延期が続いてフットワーク重くなってチケット取る行為自体遠ざかるし、国はエンタメや文化を守ろうと力を注いではくれないし、生きてくのに精一杯の人の事も助けてくれないし、苦しい中で生きていくその為にエンタテインメントが必要なのにわかってくれないし。

コロナ禍で苦しんでいる人が本当に大勢いるけど、心が救われた人もいるはずで、毎日毎日朝早く起きて満員電車乗って出勤みたいなことが合わない人にテレワークという選択肢が生まれたり、大勢でワイワイ楽しくやる事こそ正しいコミュニケーション・正しい楽しさという価値観を強要される空気が辛くてたまらなかった人は一人で過ごすことを歓迎され肯定される今は心が楽になってる場合もある。

どんどん新しい時代になっていく。自分を大切にする事が苦しくて悲しい時があるけど、それでも変わっていくことが悪い事だけではないのも知っていて、凛太郎が、私が、誰かが、ビリーになれなくても生きていける世界が未来に広がっていく事を祈りながら生きていこうと思う。

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