2022年2月24日、シアターコクーンにてコクーン歌舞伎 天日坊を観劇。
コクーン歌舞伎 天日坊、2012年以来十年ぶりの再演ってあって、私が歌舞伎見始めたのいつだ?って遡ったら2011年8月の怪談乳房榎だったから、当時全くコクーン歌舞伎をチェック出来てなかったのが悔やまれる。でもあの頃に勘太郎・七之助・獅童の怪談乳房榎で歌舞伎に出会ったのはめちゃくちゃ幸運だった。あの楽しさがあったから、いま、勘九郎・七之助・獅童の天日坊を見ることができている。
以下感想。
天日坊は承認欲求の話であり、親ガチャの話だと宮藤官九郎さんが語っていた。黒船来航の翌年、安政改元の年に初演されたらしいけれど、そんな時代から親ガチャをドブって生まれた人間が自己の確立に彷徨い苦しみ転落していく物語があるんだ。時代がどれだけ進んでも(むしろ今SNSなんかもあるし余計に)悩み苦しむことはそれほど変化しないのかもしれない。
コクーン歌舞伎、生バンドの生演奏がついてるの強い。グランドミュージカルとかでオケが高鳴ると高揚する感じと似てる。演奏の空気の震えが鼓動みたいで、作品がより生々しくそこに人間が生きているって感じがする。
アイデンティティって、自己ってどうやったら自分のものにできるのか。これは自分だってどうしたらわかる?俺は誰だ、俺は誰だ?と自問自答して、殺しては挿げ替え殺しては挿げ替えた、誰かに成り代われると、何者かになって生き延びれると思ったら化けの皮が剥がれた。でもその内側には自己はあったのか?
成り代われるかも知れないと、本当のお婆さんと孫のような信頼関係だったお三婆さんの首を絞めて、お三婆さんの死んだ孫に、頼朝の落胤にすげ替わる、高窓太夫の弟の首を切り落としてすげ替わる、"本当の"親がわかって血筋がわかって、なるべきものが分かって、豪奢な(偽りの)衣に身を包んで、大義を掲げて、でもそれは"本当の"自分なのかわからない。望んだ自分なのかわからない。何を望んでるのかもわからない。自己が見つからない。
俺は誰だ、俺は誰だ?
"生き延びよ"という声を聞いた、生き延びたはずなのに、豪奢な衣の化けの皮が剥がれたら、中には殺して奪った高窓太夫の弟のボロボロの衣がある。裸の腕には天の字の痣がある。
追い詰められて殺されるその時、無闇矢鱈と刀を振り回すその太刀筋も、表情も、あふれかえる感情も、一瞬ごとに変わっていく。怯えて震えて逃げて、嘲笑って睨みつけて斬りつけて、法策も天日坊も頼朝の落胤も木曽義仲の嫡子も、全部混ざって混沌として助けてくれって叫んでるのに、自分の生まれによって『天日坊』を信じて着いてきてくれた人丸お六と地雷太郎も殺されて、一人きりになってしまった。あまりにも世界が彼に対して残酷だった。
天日坊って、法策って、なにもない。孤児であるという事だけが自分を示すアイデンティティになって、それすらも、実は木曽義仲の嫡子であるという事実の発覚により崩れ去り、本当に無になってしまう。何もないのに生きている、生かされている、流されている。
生き延びよという化け猫からの天啓を、そのまま受け入れ生の激流に流される。翻弄され、騙して殺しては追い立てられ、逃げ惑い、自分の中に何もなかったことが、自分の表層をなぞる数多の誰かの皮がポロポロとはがれて、のっぺらぼうの自分がただ死んでいくことに気がつく。
腕の天の字の痣がこそが、自分が何者かになれると、『天日坊』である証だとやっと思えたのに、その痣があるならば、あなたは『天日坊』でも何でもなく『法策』だと突きつけられたのが、吃驚するほど残酷で悲しくてたまらなかった。ままならない、ただ生きて生き延びてそれだけの事が欲をかいた高望みだと言われてるみたいだ。
法策が観音院の元でともに過ごし、兄と慕った下男久助がじつは幕府の大臣大江廣元で、こんなにも悲しい断罪をするのが辛かった。善悪で言えば、ストーリー上、大江廣元は間違いなく善のはずなのに、演じる中村扇雀さんはどこか浮世離れした雰囲気の憂いがあって、下男久助のようで大江廣元のようで、もしかしたら法策の中にあった良心の具現化した者かもしれたいと思った。
人がバカスカ死ぬし、人を殺すのは当然悪いことだし、人を騙すのだって悪い事なんだけど、もともと法策が人にやさしく穏やかで品行方正な青年だったのは、生まれながらに親ガチャドブで社会がそれしか許されなかったからだし、自分が何者かになれるかもなんて期待すら与えられなかったからだ。穏やかさも優しさもひょうきんさも全部ウソじゃないけど、それでも孤児で親が誰かもわからない法策には、心優しく品行方正でいる事しか許されなかったように思う。
最後の最後、やっと自分を信じてついてきてくれる人に二人も出会えたと思ったら、その二人も殺されてひとりきりになってしまう。そんなにひどいことしたかな、したよね、ふたりも人を殺したし、人を騙した。けど、誰にも助けてもらえないならば、自分で自分を救うしかないのにな。令和のこの時代に、こんなに主人公にグラグラに共感させられてしまう物語が存在して、鮮やかに劇的にぶちまけてくる歌舞伎という演劇は物語が強くて本当に面白い。
地雷太郎(獅童)と人丸お六(七之助さん)が赤星大八(片岡亀蔵さん)の所に行くシーン、皆でオラオラしすぎて獅童も七之助さんも笑っちゃって、特に獅童が笑いすぎてセリフ言えなくなって何度も仕切り直すのにグダグダになって震えながらセリフ言ってるのめちゃくちゃ面白くて会場中みんな笑ってたな。
髑髏柄の着物に、真っ赤な鞘と髑髏のついた刀でバッサバッサと大立ち回りする人丸お六、めちゃくちゃ格好良くて脳内麻薬的な何かがドバドバ出た。愛らしくてエロくてひょうきんでフットワークの軽い策士な盗賊で、人丸お六いい役だった。
久々の生の歌舞伎、めちゃくちゃ楽しかった。天日坊に引きずられて頭の中グルグルして心がグラグラになったのも観劇してるって生きてる感じがした。私が見に行った日の翌日・翌々日(千穐楽)、公演関係者に体調不良者が出て中止になった。コロナ禍での観劇って自分も周りの人も、大切な作品も出演者も、すべての命を危険に晒してる行為でもある。罪悪感がある。エンタメがないと私は生きてくのが難しい。
これは純粋に悪口なんだけど、ある程度いい年齢の歌舞伎ファンの方々、コロナ禍だと思ってないような観劇態度でびっくりした。延々と喋ってる、なんならマスクを外して喋る、座席でお茶を飲みながら喋る、なんか食ってる。コロナ前の歌舞伎座ならごく普通の光景だったけど、注意しながら歩いてるスタッフ見えてないのか。劇場側はもっと強い態度で客に感染予防対策を求めてもいいんじゃないかと思ってしまった。