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私の内包物をつれづれと

パラドックス定数 vitalsigns 観劇感想

2021年12月19日サンモールスタジオにて、パラドックス定数 vitalsignsを観劇。

すごかった。こわかった。軽快なんだけど怒涛の会話劇。水深800メートルの海の暗闇、小さな潜水艇の密室で、酸素も限られた中、未知の存在と対面する。どう考えても自分には遭遇し得ないエピソードなのに、全然普通にあり得るし、すでに身の回りのそこかしこにある差別意識帰属意識と取捨選択があってゾッとした。

序盤の方はサスペンスドラマのような怖さでハラハラしていたんだけど、徐々にそれとは違う、人間の心の残酷さを突きつけられるような怖さに変わっていった。海底から吹き出す熱水に含まれたバクテリアが、呼吸により取り込まれて感染するように人体を乗っ取る。コロナ禍で客席が全員マスクをしてて薄暗い地下の小劇場でこの作品をやるってのが、より一層怖さを引き立ててた。

彼ら(人間)が、遭難したバラエナから来た彼らと出会ったとき「バイタル取りますね」と言って始まって、彼らと別れたとき最後はそっと残された二人で互いのバイタルを確かめるために握手をして終わる、バイタルを取るという行為の意味が最初と最後でガラッと変化するのが見事だったし美しいなと思った。

彼らは"同一性"があれば仲間だと思い、同一性を確かめる。まず声が変わる、そして元の声に戻る、そして体温が下がる。そうすると互いに声に頼らず反応できる同一の仲間になる。

機械に頼らず人間が人間である証明をするって難しいな、彼らは人に寄生してそのほとんどが人間と同一で、考え方だって人間の個体差とどれだけ違うだろう、多分あまり違わない。人間側も彼らと同じだ、同一性によって仲間だと認識するし同一でない考え方を敵だと区別したりする。

声が変わったはずなのに"反応"しない六浦と、まだ声が変わってないし仲間ではないはずなのに声を介さないやり取りに気がついた葉山、自分たちのパターンでは同一性を図りきれない二人の人間に戸惑う彼ら。

肉体を獲得した彼らの、海の上に出て生きようとする意志と、新しい個体が生きるために古い個体は死んでも仕方がないとする考えは、彼ら自身の思考なのか、肉体に引きずられているのかわからなかった。鳥浜は、人間だった頃と寄生された後の汐入と堀ノ内にそれぞれ殺されかかっているのだから。バラエナの中に充満する寄生先の肉体を得られなかった者たち、あそこに戻ったら肉体を得た自分たちは攻撃されるかもしれないとひどく恐れるのも。

葉山はひたすらに彼らが人外の存在であることを認められない。彼らを密入国者だとしてずっと人間だと言い続ける。バクテリアじゃないと。変化を始めた六浦も、自分は人だと言う。でもヒトでないことを徐々に受け入れ始める。

彼らは彼らで同一で仲間であったはずの自分たちの中の違いに気が付き始め、敵なのか味方なのかと疑心暗鬼になる。

酸素が薄くなる潜水艇の中で、汐入と堀ノ内が命の優先順位を、一番はじめの個体である鳥浜がまず一番に減って余裕を作るべきだと考える。それをまだ自分はヒトだと思っている六浦が嫌悪を示すのがいいなと思った。人間か人間じゃないかとか、同一かどうかではなくて、違う存在でもたとえ仲間じゃなくても嫌なもんは嫌なんだよな。彼らが一番劣っているのは葉山だと結論づけてしまうことも含めて六浦は嫌だったのだろうけど。

彼らがバクテリアだから命に優先順位をつけて順番に殺すわけじゃない。鳥浜が言うように状況が変われば人は人を殺す判断をするだろう。鳥浜たちは最初に六浦を生贄にした。肉体がないのに救難信号を出すバラエナの生贄にして自分たちは助かろうとした。その生きることへの欲は人間と変わらないだろうし、六浦の"同一性"を確認して仲間なら助けようとするのだって人間と同じだ。人間も彼らも、自分より劣ってるから貶めてもいい、未知の存在だから訳がわからないから、自分の中の常識から外れるから認めない、攻撃する。何も変わらない。

葉山は最初からヒトで、今も自分がヒトだと信じているから堂々としていられる。小さな潜水艇の中、葉山は自分は人間だと思いこんでいられるひとりきりの人間だったのに、それでもマジョリティだった。自分の存在を疑うことも、不安に駆られることも、恐怖に追い立てられることもない。話をする中でようやっと、葉山は自分がマジョリティであり、その特権の上にいることを自覚する。

命の優先順位、優生思想、圧倒的多数派でいることの安心感、圧倒的少数派であることの恐怖感、世界は別に多数決じゃないはずなのに対立して多いほうが強いみたいに錯覚するし、事実少数派を踏みにじりもする。人間と人間ではない者の対話だったはずが、人間のあり方の話になっていった。

本来正しくないことが、それでも世の中起きていく。生きることを選ぶことが、他者を殺すことを選ぶことになる、選ぶ事ができるなら選ばない事もできるはずだと、そうあれるようにするにはどうすればいいのか。

葉山は最初から彼らを人間だと言っていた。それは外観特徴から同一性を認めて同じ人間だと言う意味だったし、考え方の違いによって人間ではあるが密入国者でキチガイだと言った。彼らの主張を聞いてバクテリアであり寄生生物であることを知った上で、彼らが自分の生きる意志のために矛盾に悩む姿を見て、こいつらヒトじゃんと言う。違いを認めたまま、その思考と苦悩のあり方にヒトと同じだと同情した。

彼らを人だという言葉は同じだけど、バイタルを取る行為と同じように、最初と最後でまるで意味が違うものになっていた。

鳥浜、汐入、堀ノ内たちは生きることを選んだ。それは海上に陸に上がることだった。まだ知らない風を、太陽光を知ることだった。彼らはそれを希望だと言った。圧倒的マジョリティの中に放り込まれる少数派の寄生生物が、実験動物にされる未来を示されても、目の前で葉山が、人間が、全く未知の存在を全否定から受け入れるまでに変化した、それ自体が希望の一つとして受け取られたから。

鳥浜は傲慢な命だと言った、生きることを選ぶのは時々誰かを殺す事になるけれど、それでも生きる選択をする命だと。感染するように寄生していく生命体だと知りながら、人の中に彼らを放り出すことを選んだ(放り出されたら実験動物にされるかもしれないのも理解している)、まだ人間である葉山と六浦だって同じ傲慢な命なんだよな。

個人的に堀ノ内の、バレるってなんだ!?俺たちはバレちゃいけない存在なのか?って言うのとか、"理解してくれた"っていうのが気に入らないって言うのとか、すごくいいなあと思う。マイノリティがなぜ謙ることを強要されなきゃならないのかという怒りがね、いいなあと思う。

人間ではない寄生生物を人間の中に解き放った二人が、最後に自分が人間であることを疑うというラスト、とても面白かった。安直な同一性への思い込みと、違うということ認めた上でそれでも同じだと思えることがある事は、共感という意味では同じでもだいぶ乖離があるよねって思った。

パラドックス定数の作品は、以前無料配信をしていたときに初めてみて、すごい怒涛の会話劇だと圧倒されて見てみたいなと思っていた。今回初めて生で見てみて、息が詰まるような空気と迫力を肌で感じられて楽しかった。

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