インクルージョンボックス

私の内包物をつれづれと

映画『そばかす』感想

2022年12月18日、映画『そばかす』を見てきた。

主人公を演じる三浦透子がめちゃくちゃ良かったんだけど、前田敦子の最高の俳優っぷりにテンション上がった。世の中にブチ切れまくってすっごく良い怒れる女で大好きだった。あとほんの少しの出番なのにすごく存在感と救いの風をもたらした北村匠海の演技も良かった。

(一番最後に追記しました)

主人公の佳純は、自分は恋愛も他人に対して性的な興味も抱かない人間であるともどかしげに説明をしたりはするけれど、作中で『アロマンティック・アセクシュアル』というラベルを使用しない。脚本時点では存在したこの言葉を監督が削った事の是非まではわからない。しかし最後まで見ていると、彼女の在り方を他人の為にわかりやすく単純化せずに、うまく言葉にならないところもそのまま描こうとしたのだと思った。

母親に知らない間に勝手に見合いをセッティングされる描写、親ってやるよねそういう勝手なことって嫌な笑いが込み上げた。私の場合は未遂だったけど、姉の夫のご友人をご紹介されそうになったことがあって、要らないってことがいつまで経ってもわからないし、家族って無駄に諦めが悪いんだよなって思い出した。お見合い相手も自分と同じように(結果は同じではなかったが)結婚を考えてなくて、だから友人として仲良くなってたつもりが、結局その気になられてしまって友達でいられなくなるのはなんだか寂しかった。佳純はきちんと言葉を尽くすのに、相手は聞こうともせずバカにされたと勘違いして怒り出すのが、クソムカつくし理不尽だけどやっぱりそうだよなって思った。どれだけ仲良くなったって、人間は自分の中の当たり前から外れた言葉はそう簡単に受け入れられないんだ。彼の中の当たり前なら、きっとこのままキスしてそのノリで性行為に至ってそのまま恋愛や結婚に行くはずだったのだろうな。

佳純の在り方は勝手に不可視化されている。自分が自分であるというだけの事が、他人からは勝手に不足している様に思われる。何も足りなくないのに、充足してるはずが無いと言う目で見られて、証明を説明を求める空気で息が詰まる。佳純は他者からの理解をもうずっと諦めていて、でもそれは自分は別に理解してもらう為に生きてる訳じゃないってことでもあって、怒りを憤りを抱えながらも、でも説明をさせられる筋合いもないってわかってる。

でも、だからこそなのか、真帆がシンデレラのストーリーに男目線だってブチ切れる姿に救われる。女を選ぶ為の舞踏会もガラスの靴が履けたら合格なのも努力より美しい外見が認められるのも結婚がゴールなのも全部まるごと怒れる女に。

佳純が友達からゲイであることを告げられて、自分もカムアウトしそうになるけどグッと飲み込むの悲しかった。自分がそのまま受け止めたようには受け止められない、ゲイである友人は人は恋愛からは逃れられないって思ってる人間だから。真帆が佳純を「そうなんだ」って普通に受け止めたことがどれだけ救いだったろう。

佳純が真帆と再会して一緒に過ごすシーン、どれも好きだった。佳純と真帆は全然違うようでいて案外似てる気がして、多分ふたりとも根底には憤りがある。ふざけるなって思ってる。身体の中に渦巻く言葉と感情がある。それを音にして口から出せるのが真帆で、飲み込んで身体の中でずっと響いてるのが佳純なんだと思う。発露は違えどエネルギーの質が似てるからなのか、一緒にいるとふたりとも前向きになれて新しいことも難しいこともやってみようって気になっていくのが楽しかった。ふたりで作ったアロマンティック・アセクシュアルな、或いは恋愛伴侶規範や異性愛規範にNOを突きつけるシンデレラを園児たちに最後まで見てもらいたかったし私も見たかった。

真帆の父親がよくある勘違いした"多様性"の話をしていた。変わった価値観や行き過ぎた多様性の在り方を教える前に一般的な普通の当たり前の価値観を教えないとって。馬鹿みたいだ。自分で言ってておかしいと思わないのが不思議だ。街頭演説してる父親に、あんたなんてただの馬鹿だと怒鳴り散らす真帆、最高だった。

佳純と妹のやりとり辛かった。恋愛も他人に性的に惹かれる事もないのが理解できなくて、男を好きになれない=レズビアンなんだって、全てを恋愛で片付けてしまう。それも佳純の大切な真帆を引き合いに出してそんな事を言い出すから余計に辛かった。わからないことを自分の理解できる範疇に引き込んでわかった気になるのって誰でもやってしまいがちで、でもやられた方は無力感でぐちゃぐちゃになる。

当たり前のことってなんで当たり前なんだろうって思った。妹は夫の女遊び?を怒ってたけどなんで不倫や浮気ってしたら駄目なんだろう。恋愛じゃなくたって好きな人が自分以外の人を好きになるって生きてると普通にあるけど、結婚って、支配欲と所有欲とをなにか綺麗っぽいものでコーティングして、自分以外の人を好きになる事を許さなくても良くしてるのか。

この作品を見てて一番ハッとしたのは、不倫や浮気ってなんで駄目なのかよくわからないし説明ができないってわかったことかも。世の中でなんか駄目って思われてるしみんながそれを怒るから駄目なんだろうなとしか考えた事なかった。

終盤、友情出演の北村匠海が演じる佳純の新しい同僚(後輩?)の天藤、何もしないんだよね。出会うけれど何もせずにただそこに居る。それに意味がある役だった。最後まで見ると彼がしなかった事の意味がわかる気がする。佳純も天藤も、自分と同じような考え方の人がいるんだ、そこに生きてるんだ、それならいいやって、良かったっていう安堵が伝播して、走り出せるようになる。

この映画、結構苦しい展開も多いんだけど、不思議と明るさや軽やかさもそこにあって、中盤の真帆とのやりとりや、一番最後の天藤の「同じような人がいてどっかで生きてるならそれでいいや」って言葉にふわっと体が浮かぶような解放感があって、すると映画の中の佳純が走り出していて嬉しかった。ストーリーは佳純の成長物語ではあるけど、なんか成長っていうより解脱って感じがする。解脱して、ここからがまだ長くて新しい人生の第二章って感じ。ボーイ・ミーツ・ガールしても(させられても)互いに別の方向向いて普通に歩きだして笑ってるの明るい未来だった。

 

私はアロマンティック・アセクシュアルというラベルを普段使ってはいないんだけど、それは自分の中で上手く言葉で形容できない部分がそのラベルによって取りこぼされて違う形になっちゃうような気がしてて、だから使えない。ただ、その言葉が指す広義の場所は私の居場所であると思っていて、そのラベルの存在に安心をもらっている。考えたり感じたりしている事を言語化すると、言葉にする過程でぜったいになにか違う色や形や匂いのものになってしまうけど、三浦透子さんがインタビューで複雑なものを複雑なままでと話しているのがすごくいいなあと思った。言葉にできないものを何とか言葉にすることで多少形が変わっても伝えるっていうのも確かに大事だけど、言葉にならないものが言葉にならないままでも大切にしていいって思わせてくれた。

アロマアセクが存在する事を知ってもらうにはそのラベルを作中で出す事も意味があるけど、『恋せぬふたり』ではラベルを出して、でも単純化しすぎて歪めてしまった部分もあったように思う。『そばかす』は出さなかった分だけ単純化せずにどう描くかの模索が感じられた。どっちのほうがより良い・悪いという意味ではなくて。

今作はアロマンティック・アセクシュアルやそのスペクトラム、アンブレラの中の人にとっても、それ以外の世の中の恋愛伴侶規範だったり異性愛規範に疑問を持つすべての人に少しずつお守りになる物語だ。もっと早く出会いたかった。色んな人の感想にもあるけど、こういう映画に、エンタメに、もっともっと若い頃出会えてたらなあって思う。10代の頃に、自分がおかしいんじゃないかって思ってた、思わされてた頃に出会えてたらもう少しなにか違ったかもって思う。大人になってからやっと少しずつお守りになってくれる作品と出会えている気がするな。

追記
映画そばかす、私はかなり楽しめたんだけど(マイクロアグレッションは多いのでしんどいが)多々見受けられる批判もまたとても大事な指摘がされていて、マイノリティのための作品のようでいてマジョリティへの目配せになってる描写はあったし、当事者の苦しみを矮小化してぼかされてしまうのは良くない事だと思う。佳純の事をアロマンティックアセクシュアルの主人公であると作中で明言しないという事の問題点は色々あるんだけど、セクシュアリティについてのラベルを使う使わないは個人の自由である事は大前提として、でもテーマとして描くのならば佳純が自認しているセクシュアリティを作中で明確に示す必要はあった。
私自身はラベルを使うことに対する抵抗感があって、自分が現状ハッキリとしない部分をハッキリさせないこと、ラベルを使わない選択をしたから、映画そばかすで佳純がラベルを使っていないことに安堵しちゃう部分があったんだけど、その前に自分を疑い続ける苦しみとラベルとの出会いは必要だったと思う。必要だったってのは、映画そばかすがアロマンティックアセクシュアルの主人公を描く決意をした作品だから、作中で主人公がセクシュアリティを自認する過程でその言葉に出会う描写が必要ってことね。言語化が下手過ぎてだめだな。