2021年11月11日、18日、銀河劇場にて舞台『魔法使いの約束』第2章を観劇。
第1章が楽しかったので第2章待ってました!幻想的な魔法とリアルの万華鏡を覗き込むような、ワクワクと楽しい、キラキラと眩しい時間だった!原作のある作品が舞台化すると、原作を見ていた時よりも理解が深まったり全く気にしてなかった所を発見したりできて面白い。映像や文字情報も当然素晴らしいエンタテインメントだけど、演劇の、人間の持つ情報量の凄まじさだなあと思う。
第1章の感想はこちら→https://inclusionbox.hatenablog.com/entry/2021/06/01/194027
まほステ2章のキャスト発表の時、森田桐矢くんがラスティカで田村升吾くんがシノというのを見て、これは間違いないなと勝手に思った。彼らはテニミュの時に私の好きなキャラをすごく沢山試行錯誤しながら、最後まで思考をやめることなく愛するように演じてくれた恩人なので。今回めちゃくちゃ期待をして見に行って、当然のように期待以上に素敵にキャラクターを生きていて楽しかった。ミーハーに生きてるとこういう嬉しい再会が度々あって良い。今回もテニミュで見てた人がわんさかいるので再会も盛りだくさんだった。
以下ネタバレ感想(舞台だけでなく、ゲームの内容、先のストーリーについてに触れてる場合もあります)
ニコラスおよび魔法科学兵団とヴィンセント様(今拓哉さん続投嬉しかった!)が歌や表現力がすばらしいので、「魔法使いなど不要だ」と人間による魔法科学武装で一致団結する彼らの強さが感覚的にわかるし、個々は人より力があるかもしれないが全く団結できていない21人の魔法使いたちとの差が一瞬にして理解できるなあと思う。賢者がこの21人の魔法使いを一緒に協力して一つに束ねようとする中で、ムルのかけらに一つ一つバラバラのピースはただのピースだし無理に1つにする必要はないと言われる。私も無理に1つにする必要は無いと思うけど、別々の価値観で全然理解し合えない人達が、理解し合えないままでも共に生きられたらいいなと思う。
前作でも思ったけどアンサンブルの方々(POW-ersと呼ぶそう)がすごい。舞台上の魔法や世界観の表現をパフォーマンスによって支える大きな柱だなあ。映像演出が多い作品はファンタジー要素を魅せやすいけどどうしても生身の人間が浮く場合があると思う。映像演出をいかに現実の舞台の生身の人間と調和させるかって、方法は色々あるんだろうけど、人間の肉体や衣装や身のこなしをその場の比喩表現へ近づけるってのは非常に美しく馴染む方法だなと思うし好きだ。厄災や攻撃や魔法効果が、映像と身体表現の融合で虚構からもう少しこちら側の現実になる。人間を二次元に寄せているから、生身と調和させない事でアニメっぽさゲームっぽさを演出するのだって当然良いんだけど、映像演出過多ぎみのこの作品で生身の人間の身体表現が美しいことはいいバランスだなあと感じる。
和合真一さんのフィガロがめちゃくちゃフィガロでビビった。このキャラクターのどういう所が好きなのか(好きじゃないのか)をつらつらと考えさせられてしまうフィガロだった。すごい器用な人なんだけど、生まれたときから唐突に器用だった訳ではきっとなくて降り積もった地層のような器用さで、2000年の時間が作り上げた模様の表出するどの面もきっと、どれだけ異なる性質に見えたとしてもフィガロなんだと。そういう所が好きだし好きじゃないんだ。たくさんの魔法使いが集まった場所で、若い魔法使いみたいにキャッキャしたりテンション上がったり逆に畏まったりなんて全然しない人で、でもどこにも留まれる場所がなくてフラフラして、どうしたって寄る辺がない(と本人が思い込んでいる)のがわかってしまう。でもみんなが楽しそうで賑やかな様子嫌いじゃないんだろうね。寂しさをごまかしてごまかして本性のように力をちらつかせたり逆に道化のように振る舞ったりして、そうやって降り積もったものがフィガロの本心を覆い尽くしてるみたいな。死ぬ時はファウストが手を握っていてくれたらいいねって思うけど、私の理性の部分が、被害者に加害者のメンタルケアさせたくね〜って叫ぶので、フィガロはきちんと自分の心の痛みとさみしさと加害性に向き合って説明と償いをしてくれとも思う。じゃないとあなたの天命だった人とは死を人質にしたって向き合えない。対レノックスのちょっと突き放すような気安さは、自分の事情をあらかた知りつつも俺を不利益にしないよねっていう信用と甘えみたいだ。
シノが登場した事でヒースクリフの人物像がより豊かに浮き彫りになってきて楽しいなあ。シノはヒースの事が大好きで自慢で誇らしくて、でもそれが自分自身の価値になってしまってるのが悲しい。自分に何もないと思ってるから、本来の自分自身ではヒースに何も与えられやしないと思い込んでるから、英雄になりたがる。名誉こそが素晴らしく、それを与えられる存在になりたがる。ヒースはシノに英雄になってほしいわけでも立派な城を建ててほしいわけでもない。堂々と振る舞えて自分の意志をはっきりと示せて、ヒースクリフを敬愛していると真っ直ぐに見つめてくる、ただのシノでいいのにね。シノは、ヒースが魔法使いであることを隠すのが自分を恥ずかしいと思われてるようだと言うけど、たぶんヒースもシノが自分に名誉を与え英雄にしようとする事が"ただのシノとヒースクリフ"を大事にしたい自分を否定されたように思ってるよね。互いに守りたい気持ちは本当なのに結ばされた約束ですれ違ってしまうのが切ない。でもヒースが誰かと喧々と怒鳴り合ったりするとしたら、シノしかいないよなと思う。
ファウストもフィガロとレノックスの登場でより多面的な人物像が浮かび上がった。まほやくってステレオタイプを利用してキャラ造形や関係性を面白くしようとしてる。何度も繰り返される「僕について来い」が結構くどかったけど、ファウストの"東の国の魔法使いらしさ"の中にふとした瞬間に出てきてしまう"中央らしさ"がより強調されていたなあと思う。私は迫害と虐殺の歴史を都合よく改変したアレク・グランヴェルと中央の国のあり方がグロテスクすぎて許せないんだけど、それもあってファウストがレノックスといると"中央らしさ"が出てきやすくて心が苦しくなる。質実剛健実直そのもののレノックスも被害者の一人だし、迫害の最たる被害者であるファウストも、どちらもまるで悪くないんだけどね。いま二人が"中央"以外に居場所を持つ事が私にとって救いだ。レノックスの強固な実直さはファウストの押しの弱さと実はとても可愛いところを露呈させちゃったな。ファウストの可愛らしさは見ている者に隠していたいと思わせるから、惜しい気持ちになる。あと矢田ちゃんは本当に安定して歌がうまくて見る者の感情を引っ張る力があって気持ちがいい。
ルチルもすごくルチルだった。柔和で大人しく見えるけど大切な人を踏みにじられたら黙っていられない。言葉は祝福にも呪いにもなる、祝福の言葉を使おうとミチルやリケに教え歌ったあとに、ルチル自身がニコラスに呪いの言葉を吐くシーンはすごく皮肉が効いてると思った。自分自身にも大切な人にもその呪いは降り注ぐのだとわかってても、口をついて出てしまうくらいに、普段は理性的なルチルにも激情家の一面はあるし、明らかな侮辱と迫害を許さないという強い憤りと意志がある。"役立たず"という言葉、南の国の兄弟にはキーになる言葉だ。これはミチルのほうが強いけど、"誰かの役に立つ"ことが良いことだ=役に立つから魔法使いを差別しないで、という南の国ならではの呪いがかかってるよなあと思う。ミスラのことを歌うシーン、兄として教師としての振る舞いではなくなるのが良い。でも歌詞に"あしながおじさん"という単語が出てくるのが、固有名詞の持つ力が強すぎてちょっと微妙だった。
ミチルとブラッドリーのやりとり、ミチルは"みんなの為に"と頻りに言うけど、ブラッドリーは理解を示さない。訳がわからないし、ミチルの本心じゃないと見抜いているから。「僕が強くなってお前を倒してやる」というミチルの本心をブラッドリーは笑って歓迎する。このシーンで、ミチルのいう"みんなのため"とリケの言う"皆のため"は全く別物だなとわかる。リケの"皆のため"はノブレス・オブリージュ的な考え方(教団の問題は一旦おいておく)、ミチルの"みんなのため"は南の国の在り方の呪いだなあと思う。魔法使いは"人間の役に立つ"から人権を担保されている歪な南の国の呪い。フィガロが一枚噛んでるし、人が住むには厳しい南の国の土地で人間と魔法使いの共存を叶えるのに、その呪いはめちゃくちゃうまくハマったし、今はまだうまく回ってるように見えるけど、この先ずっとその考えならばいつかこの歪な共存は崩壊するよね。ミチルの心根の優しさと臆病さと気の強さのバランスがどうにも愛しくなる。今牧輝琉くん、テニミュでリョーマの強気なクソ生意気さを見てるのでミチルの愛らしさのギャップがすごかった。
ブラッドリーとネロ、この二人のすれ違いも切ないんだよな。ブラッドリーは意図せずナチュラルに人心掌握できるタイプの魅力ある男で、ネロはブラッドリーのそういう所に惹かれつつも、命の扱い方の価値観が違いすぎてぶつかってしまう。命の使い方がどれだけ違っても、それがブラッドリーじゃなければ、ネロはこんなに傷つかないんだろうけど。ネロはブラッドリーと一緒にいればいるほど、一人ぼっちよりもずっと孤独になってしまうんだなあ。吐き捨てるみたいに「死に際に立ち会うつもりはない」って言う声も届かない、理解されない。二人でいるほうが一人でいるよりもずっと寂しいし、痛くて苦しくてたまらないから、傍にいられなくなってしまった。ブラッドリーも、自分を裏切ったかもしれない相手がネロ以外なら、速攻ぶっ殺してたし、こんなにも心に引っかかり続けたりはしないんだけど。本人からしたら破格の扱い、でもネロはそんなの欲しくない。
リケとネロのやりとり、良いんだよな。教団がリケを尊重しているとは思えない、洗脳状態の可能性を理解しつつも、無理矢理に現実を突きつけようとしない。温かいご飯を食べたことのないリケに、温かくて美味しい食事を与えるだけ。「口の中が天国になったみたい」ゲームの時から好きなリケの言葉だけど、きっとリケの中にある最上級の幸福な祝福の言葉だろう。ネロは、外の世界は汚れていると思い込まされているリケの世界を最初に広げてあげた人だ。最初は硬かったリケの声色が段々と明るく楽しげなトーンに変わっていくのがネロとの心の距離を表しているようだった。
アーサーはリケに、知らない世界を否定してしまうと、自分が苦しいときにどこにも行けなくなってしまうと諭した。リケ自身の思いを尊重しながら、それでも外の世界にはリケの知らない美しいものも存在すると。アーサー自身が世界に絶望したっておかしくない境遇だったのに、どうしてこんなに優しく理性的でいられるのか。まあそれはアーサーがオズに救われたからなんだけど、アーサーには自分の信じたいものを真っ直ぐに信じ抜く強さがあって、それが怖いなと思う。オズもきっとアーサーのこの強さが怖いんだと思う。それを失わないために離れていたいのに、アーサーにはその恐ろしさがわからないからオズはずっと怖いんだろうな。
カインは誰にでも明るくフランクでフラットで社交的で、正直アーサーに次いで人間離れしてるというか出来すぎてる人なんだけど、因縁のあるオーエンが出てくると一気に人間らしくなる。オーエンという同じ生命体なのに全く理解不能で災害のように膨大な理不尽さをぶつけられて、ようやっとネガティブな感情だったり、感情が波打つ感じが出てくる。
西の魔法使い4人が揃うとめちゃくちゃ華やかで楽しい。一緒に歌って踊る姿が、空を飛ぶ姿がめちゃくちゃ楽しい。クロエは境遇的にちょっと違うかもしれないけど、西の魔法使いの享楽主義で個人主義で孤独に理解があって、いつでもどこでも誰からも愛される準備ができている感じが好き。
森田桐矢くんのラスティカ、ふわふわと地に足がついてないような、気の赴くままに周りを振り回して、でもその事に気がついていないような、そんなふうでもニコニコと朗らかな姿に力が抜けちゃうし好きになっちゃうような所が正にラスティカでいいなあ。あと諦念のような孤独への理解が底の方にある気がする。ラスティカの優しさってそういう形をしてる。
皆木一舞くんのクロエ、めちゃくちゃ可愛くて良い子で、もう何からも傷つけられないで欲しいと思わず願ってしまうクロエだった。痛みを知ってるから暗闇を知ってるから、今の幸福をものすごく楽しんで噛み締めてできること何でもしたいっていうキラキラが見えるようだった。
ムルとシャイロックのやりとり、本当に濃厚ですごかった。愛憎という称号を与えられてしまうとそれ以外の言語化が難しいほど。ゲームだけ見てたときはよく分からなかったけど、ムルの好きなものが"キラキラしたもの"なの、わかるなと思った。キラキラって光の明滅だし屈折だし分散だし乱反射だ。ずっと一定に明るいんじゃなくて真っ暗になる瞬間があるから光が目に焼き付くし、光は何かを通過するとまっすぐ進めず角度を変えるし、色とりどりに枝分かれするし、あっちこっちに方向転換していく。そういう事象を含めた果ての輝きが(たとえそれが破滅的でも)きっと好きなんだなあ。昔のムルがシャイロックをいたぶるように接するのも、今のムルが屈託なく好きだよって言うのも、どちらもまるで違うようで似ているのかもしれない。ムルによってどうしても変質するシャイロックの果てを観察したくて、それがムルにとってシャイロックを愛してるということなのかも。シャイロックにとっては傍迷惑だよなあ。でもシャイロックも矛盾や非効率な人間の機微を愛してるから、どうしょうもなく憎らしいムルも愛玩動物みたいに屈託なく好きだと表現してくるムルも甲乙つけがたいのかな。愛憎コンビ訳がわからなくて難しいし、魅力的だ。
オーエンめちゃくちゃよかった。神永圭佑くん、久々に拝見したが声色がすごい。人の臆病さや恐怖心や猜疑心を引きずり出す幻惑の歌声。少ない出番でも圧倒的な存在感を残していく。オーエンを見てると、賢者の役割ってまだ何にも染まっていないことなのかなと思う。この世界のステレオタイプ、偏見、差別にまだ染まっていない。何も知らないからきちんと疑問を持てる。可能性の地平に素直に立っていること。そうでないときっと、あのバルコニーで迷子の子供のようだったオーエンとは出会えなかったんじゃないかと思う。
ミスラも出番が少なめの中で存在感を残していった。鮎川太陽くん、さすがだった。個人的にミスラって気だるげなイラストと声だけじゃなく、ゲームの中の地の文によって執拗に偏愛されてるから、滴るような色気のある男として成立させられてると思うんだけど、当然舞台には地の文は存在しない。体一つでそれを体現するってものすごいなと思う。あとマドレーヌの所が日替わりだったことを二回目の観劇で知って面白すぎた。二回目見たときはフィガロが大火傷しててめちゃくちゃ笑ってしまった。
佐々木崇さんのニコラス、歌がうまいし体格も身のこなしも良くて元騎士団長かつ魔法科学兵団長っていう説得力がある。わざと魔法使いを侮辱したり強く叱責したり、魔法使いを排除しようとする考えは、たぶんニコラスだけに特別ある考えではない。ニコラスが飛び降りたあとのオーエンや魔法使いに対する人間の反応を見れば自ずとわかる。世界が普通に差別的なんだよな。まほやくの世界の難しさって、差別構造が歪なところだと思う。被差別側に力があり、差別を正当化できるような理由付けがされてしまう。なんていうかマジョリティに都合のいいファンタジー差別な所は危ういなと思う。(ちょっと話は変わるが、佐々木崇さん新テニミュに平等院鳳凰役でご出演されるので、そういう目で見ちゃったんだけど、今から佐々木さんのお頭が楽しみで仕方がないです。)
まほステ2章で印象に残った歌詞「呪いの言葉が愛の歌になるかもしれない、昨日の悪夢が希望の正夢になるかもしれない、味気ない日々が美味しいスープになるかもしれない、誰かの望みが明日世界を滅ぼすかもしれない」繰り返し歌われるからすごく耳に残ってる。最後に不穏さを残すのがまほやくって感じだけど、やっぱり賢者のあるべき姿は可能性の地平に真っ直ぐに立っていること、世界に疑問を持ち続けることなんだと思った。賢者は移り変わるけど、前の賢者はどのように元の世界に帰っていったのかわからない。たぶん、賢者がこの不思議な世界のステレオタイプや偏見や差別に馴染んで染まってしまったときに、疑問を持つことを忘れた時に、この世界や魔法使いたちと別れるんじゃないかなと思った。
まほステ2章、めちゃくちゃ面白かった。1章よりキャラクターが増えて一人一人のシーンは少ないけど、その分キャラクター同士の関係性が色濃く描き出されていって個々の多面性が浮き彫りになっていくのが面白い。5つの国のステレオタイプが用意されながらも、一人一人それそれに少しずつ価値観がズレていて、色とりどりに個性豊かなそのズレが乱反射してるのが楽しくて美しくて苦しくて痛々しくて目を奪うんだろうな。第3章を(あると思ってるので)ぜひとも待ってます!これだけ豪華キャストだと、揃うのが大変そうだけど、どうかキャスト変更無しで突き進んでほしい。