インクルージョンボックス

私の内包物をつれづれと

箱庭円舞曲『インテリぶる世界』配信 観劇感想

先日、You Tubeで期間限定無料公開していた、箱庭円舞曲『インテリぶる世界』の配信を見た感想。

またおすすめされたのと、以前『今はやることじゃない』を見て面白かったので見てみたけれど、箱庭円舞曲の作品は難しいな。難しいし、ぐるぐる考えるし、わけわからないんだけど、どこかしらに引っかかる部分があって、舞台を見てるのに自分の中身と話をしてるような感じがする。他人事の物語なのに、自分事にさせられるような。感想書いてるのに自分語りしてるみたいで嫌な感じ、でも感じて想ったことだから好きに書きます。

"深八幡朱理子"という芸術家チームのアトリエを舞台に、現在と過去が同時に展開されて混ざり合う作り、とっても好きだった。箱庭円舞曲の作品、まだ2作品目なんだけど、噛み合わない会話が濁流のように飛び交うディスコミュニケーションが作風なのかな。あふれかえる怒涛の会話に押し流される感覚がある。

私は最初コモリとフカダを同一人物のようにミスリードしてしまって、こんがらがってた。別人だってわかってから合わせ鏡みたいな人たちだったんだなと思った。

言葉が交錯する、かすりもせずに通り過ぎる、すれ違う、同調する、反発する、否定する。たくさん考えて考えて考えてるけど言語化しない(できない)人と、ある程度考えてその都度自分の手の届く範囲で言語化する人、先生の言う芸術に近いのはフカダの方だったけど、芸術がコミュニケーションの一種であるならば、言語化する行為も否定されるべきじゃない。

私は口で話すより文章の方が気持ちを表現しやすいから、こうやってブログやってるけど、自分を信用できないから言語化する部分もある。言霊じゃないけど、言葉にしておく事で自分に意識させる。あと本当にすぐに忘れるから、自分で思ったくせに薄情なくらい忘れるから文章を書いて残しておく。それを否定されたくないな〜と言う気持ちで言語化が優位な(一般人的な)コモリを擁護しちゃう所と、言葉がポンポン口をついて出てこない(けど思うところはめちゃくちゃある)フカダにも同族嫌悪的なモヤモヤを感じる所もある。私もまた、インテリぶってる人間だ。

美術雑誌の記者が「深八幡朱理子はチームなんです」と叫ぶ。"深八幡朱理子"は俺一人だしここにいる、フカダにそう言われても何も納得できない、彼女にとって"深八幡朱理子"はチームなんだから。なんか多分、アイドルだったんだろうな。激情とか陶酔とか身勝手な憧憬と愛情のような欲望を、ぶつけていいと思わせてくれる、受け入れてくれるはずと勘違いさせてくれる器だった。深八幡朱理子はフカダは浦島太郎は、別に玉手箱を開けてしまった、それだけの時間が流れたし、部外者には介入できない存在だったし、彼らは普通に人間だった。彼女にとって"深八幡朱理子"は、それが壊れてしまうくらいなら代償に2のn乗から私に1をくれてもいいだろうって駄々をこねまくるくらいの存在だった。

この作品は芸術テロを扱ってるけど、私は芸術について無知なので全然わからないし、絵とか見てもこれは好きくらいしかない。例えば私はバンクシーの絵がめちゃくちゃ評価されてるのが、壁の落書きとどう違うのかいまいちわかってない。

でもバンクシーの絵がオークションで落札された途端に、額縁に仕込まれてたシュレッダーで絵が切り刻まれたニュースを見たときは、自我が強いな〜と思った。高額で落札されるのがわかってて仕込んでた。誰かが大枚を叩いて所有権を持った途端にそれが消失する。生み出した側が所有権が移ったにもかかわらず失われる所まで介入した。(バンクシー本人に了解をとってオークションにかけたわけじゃないだろうけど)金が動く欲望が動くその瞬間に対象が消え失せる、ものすごく滑稽で、作者の思惑通りだったんだろうなと思った。あと単純に誕生から消失までが仕組まれた作品って美しい。なにか訴えたい自我の発露、その表現が芸術なのかもしれない。

例えばフカダが誰かとコミュニケーションしたいと、見てほしい知ってほしいそばにいてほしい、自分がここにいることを、その欲望の発露があの最後の無様な配信なら、それはめちゃくちゃ陳腐で不格好だけど、もしかしたら芸術かもしれない。自己顕示欲じゃんって言ったらそれまでなんだけど、自分がここにいる事を自分以外の人にも知っててもらいたいのは誰だって持ちうる欲求だ。

人間って考えたい生き物だから、それらしい物を提示されると勝手に深読みしだす。別にそれが正解じゃなくてもよくて、自分にとってだけ都合のいい答えで全然よくて、そうやって考えることが気持ちがいいんだ。私もこんな文章を書いてる時点で自覚ある。自分の納得のためだけに考えたいし答えがほしい。だから私も誰かに見てもらいたい気持ちとは別に、他人が誰も読んでなくても自分が読むために書いたりする。

フカダの母親が"深八幡朱理子"に問う。「見てもらうことが目的なの?作ることが目的なの?」それって両方なんじゃないかな。本当にどっちか一つだけって事あるのかな。見てほしいし注目してほしいし存在を知ってほしい、けど、ただ考えたいし生み出したいし形にしたい、もあるんじゃないかな。ブラフマーの塔ってすごいじゃん、世界の終焉が2のn乗-1で説明できるってすごいじゃん、この凄さを面白く新しく表現できんじゃね?って、そういうシンプルな原動力。

この時はまだ、沢山の人に見てもらうより突き詰めて考えたいの先にフカダがいて、知ってほしい見てほしい共感してほしいの先にコモリがいたように思うんだけど、どこからかだんだん変化していった気がする。最終的にフカダは自分がここに居ることを叫んでいた。二人は反対のようでいて循環していて、やっぱりどっちか一つしかないなんて事ないんじゃないかな。

私のせいだと自分を責めるフカダの母親は、あなたにそんな影響力はないって言われる。人一人にそんな影響力はない。それはそうなんだ、一人にできることってそんなにない。でも影響力は0じゃない。どんな集団もそこに居るのは個だから。あなたにそんな影響力ないって言うのも逆に影響力があると言うのも全部画一的に語るのは乱暴なんだよな。

フカダとサムライが通り魔事件で興奮して、こういうのをやらなきゃって言い出すのゾワッとした。でも二人のなんで人を殺したらいけないのか?という疑問、多分先生だったら何でだろうな〜って一緒になって考えただろうと思う。まず当たり前の常識を疑ってみる。そこを考えず、自分が殺されたくないからとしか答えられないコモリは、最初から芸術テロには向かない人なのかもしれない。同時にフカダとサムライの、死への憧憬みたいなのに引きずられない人は必要だとも思う。あの死への好奇心は積極的に死にたいのとは違うのかもしれないけど。

先生とフカダがギャーギャーあーじゃないこうじゃないって言い合ってたあのぶつかり合いみたいな事が、もっともっとたくさんできたら良かったのにね。あれはフカダにとって多分楽しかった時間だし、他人とのコミュニケーションだったと思う。思えばフカダの父親の毒入り鍋事件よりも前に、あの時から"深八幡朱理子"の個々のズレがハッキリしてたんだな。ジュースは先生とフカダのやりとりに嫉妬してた。サムライはマイペースで、コモリは理解できずにいた。温度差はもうずっとあったんだ。

ジュースがフカダに世界じゃなくて誰かと関わりなよって言う。シンプルだなあと思う。ここに居るって叫ぶためにフカダが高い所から飛び降りる姿を配信する。登ったそれはフカダにとってのブラフマーの塔なんだろう。2のn乗-1、不幸の手紙のパクリのチェーンメールネズミ講的に言葉だけがどんどん広がるけど中身は伝わらない、二人に回さないと幸せになれない、中身って真意ってなんなんだろう。自殺の配信がバズってるのただただ悲しかった。人一人には二人の親がいる、その親にも更に二人ずつの親がいる。祖父母や曾祖父母がいなければ自分は存在しないから2のn乗-1で自分は消滅する。本当に?本当に1の親は絶対2なの?数学じゃなくて普通に身近な世界を見れば、繋がってるのは1だったり3だったりする事もあるのに疑問に思わないの?って思っちゃった。例えばフカダが本当にブラフマーの塔から飛び降りて2のn乗-1になったとして、別に世界からフカダは消失しないけど(誰かに傷をつけるし存在した情報は残る)、-1で深八幡朱理子は消失しちゃったのかもしれない。

フカダにジュースが言う言葉、すごくシンプルで、フカダに届いていたなら更に追い詰める言葉かもしれないけど、案外先生と同じこと言ってる。でも、先生は地道な人との関わりは"諦めた側"の言葉だって言うんだよね。チキンレースみたいな過激な事をするのが諦めてないってことなら芸術ってなんかつまんないな、と思う。人の死を面白がるのが芸術テロになるなら醜悪だなと思うし、私はさっぱり芸術に理解がないんだろう。

この作品、主人公が芸術と死を結びつけてるからなのか、死の気配がずっとあった。首吊りとか即身仏とか通り魔事件とか毒入り鍋とか喪服とか、麻痺が残って芸術家として死んだ扱いされてるコモリとか、サムライがマネキンと青姦してるのもそういうメタファーかと思ったし、狂言自殺の配信して叩かれたフカダは最後に死んだ父親と対話したりする。死に興味があるのは、生きたいってことなのかな。誰かとコミュニケーションしたいっていう欲求、めちゃくちゃ生きてる感じなのにね。「人が来てますよ」もし誰かに、彼らに、あの不格好な叫びが届いたのなら、今度はコミュニケーションができたらいい。まずは糾弾されるかもしれないけど。

インテリぶる世界、難しいな、わからなかった、でもおもしろかった。"インテリぶる"ってタイトル自体、現代のSNS社会への批判って感じもあって身に覚えある〜と思うし、私自身ツイッターとかエコーチェンバーで視野狭窄しまくりだろうし。舞台や映画を見ることは、今の時代感覚だったり他人の価値観に触れたり想像する機会になるんじゃないかなとは思うので、これからもミーハーに色んな作品を見ていけるといいな。最近は配信してくれる作品が増えていてありがたい。