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私の内包物をつれづれと

ミュージカル『GREY』 観劇感想

2021年12月23日、俳優座劇場にてミュージカル『GREY』観劇。

"これは一人の若い女性の自殺未遂をきっかけに、登場人物たちがそれぞれの“リアル”について自らに問う物語だ。

リアリティ番組に出演していた新人歌手が自殺を図った。なぜそれは起きたのかの顛末を、エモーショナルな楽曲に乗せて送る群像ミュージカル。"(HPより引用)

今回、矢田ちゃん主演ミュージカルというのと、お名前はよく拝見する板垣恭一さんが脚本演出ということで毎度のミーハー心でチケットを申し込んでみた。ミーハーに生きてると面白いのに出会えたりするのでこれからもミーハーに行こうと思った。以下感想。

 

登場人物みんな、色にまつわる名前が付いてるんだな。藍生、shiro、金銀、紫、黒岩、茜、橙。みんな自分の色があるのに、モノトーンに近い色の服を着て、タイトルはGREYで。主人公はストレスで世界がグレーに見えるようになってしまう。舞台上のモノトーンの世界は藍生が見ている世界なんだ。もしくは一人ひとりが抱える自分を塗りつぶすほどの後悔の色がGREYなのかもしれない。ほの暗くほの明るい、この色と付き合って生きてくんだ。

小説家志望でリアリティ番組構成作家をしている藍生の、揺らぐ自尊心が見ていてリアルでグサグサきた。自信がまったくないわけじゃない、友達にはついデカイ口叩く、でも思うようになんて全然行かないし、自分の才能のなさを突きつけられる。そんな中、邪険に扱ったりもしたshiroの輝くような才能と目覚ましい活躍に嫉妬と劣等感が湧き上がる。そして匿名で誹謗中傷を送ってしまう。矢田ちゃんの吐き出すような歌声がね、美しくてザラザラしてて清濁っていうのかな、人の心に手を突っ込んでかき回して引っ張る力がある気がする。

shiroは独特の立ち位置でストーリーテラーだからかあまり本音の吐露が多くない。いや逆に常に本音なんだろうけど、素直なんだろうけど、誰かの役に立たなきゃ愛されないという被虐待経験からくる強迫観念が分厚くて、全部が嘘偽りだなんて思わないけど、分厚いそれの内側まで見せてはもらえなかった。薬に厄介になることになるよって忠告されて、もう飲んでるから大丈夫って笑ってるときが一番薄かったかもしれない。あとは歌を歌ってるとき。話すより笑うより歌うほうが雄弁に叫んでる。言葉は言葉のままの意味なのかな、そうでもないよね、そうだよね、って思った。願いは今よりもう少し叶わないことだから。この作品出てくる女みんな薬に厄介になってる感じで笑っちゃったんだけど、現代人で病院にお世話にならずに生きてけるのってなかなか希少だ。きちんと薬もらって生きてるの、生きようとしてるのえらいよな。

SNSの誹謗中傷が降り注いで世界が暗闇になっていって、その中ででも歌う、痛みの中でギリギリの状態で叫ぶように歌うところで、もういいかなって思ってしまったんだな。他人の言葉ばかりを受け止めて、自分の痛みをどこにも逃がせなくて、もう生きてなくていいかって。

彼女を見ていて、世の中(自分も含めて)役立たずに冷たいよなって思い返してた。役に立たなきゃ生きてる価値がないって思い込まされる世界だよな。役に立とうが立つまいが持っているのが人権のはずなのに、まるで許可制みたいになってる。誰からも社会からも守られないって、信じられるものがないから、立ち位置の違いで乱高下するヒエラルキーの下でいたくなくて自分より更に下だと思い込める人を見つけて踏みつけて安堵してる。SNS良いこともあるけど悪いこともめちゃくちゃある。捨て垢作ってまで悪意をぶつける人とか見るとカウンセリングが必要だと思う。

リアリティ番組を担当する局アナの茜さん、元AKBの梅田彩佳にこのキャラクターこの台詞言わせんのか……って結構グロテスクだった。誹謗中傷を鋼のメンタルで乗り切るとか、もう若くないとか。女性アイドルに若さとか愛らしさとか反論せずにニコニコすることとかを求めてくる奴ら、人を全然人間扱いしないのに、それが有名税で当然と権利みたいに思ってる人達の相手をしてきたんじゃないかなって想像してしまう役者に、そういう台詞をあてがうのかあ。最後はshiroをSNSで誹謗中傷してきた人たちの開示請求をしようと立ち上がる。SNSで可視化されてしまった言葉たち、匿名だと思い込んでるからできることなのかも知れないけど匿名ではないと知らせる事は意味がある。そうやって動くことが、彼女がかつて諦めてしまった自分を大切にする事のやり直しになればいい。

全然違う話なんだけど、梅ちゃん見るのSHOCK以来なんだけど、梅リカが好きすぎるのでまた出てほしいし、何なら矢田ちゃんもライバル役で出てほしい。矢田ちゃん、屋良っちとも寺西くんとも浜中くんとも共演してたし半ばSHOCKカンパニーと言っても過言ではないのでは?(過言です)

金銀(きらり)が、大切な友人からまるで理解されないのが私はつらかった。自分のセクシュアリティを明かすほど信頼してる人たちが、世の中の偏見そのまんまの事をぶつけてきたり、恋愛しない事自体に理解がなかったり、物語の中で、恋愛的な感情の方が友愛よりも優先されて重要視されてるのも。友人の事なのに、そこを調べもしない考えもしないような人達なんだなって。シスヘテロの背中を押すために物語に登場するマイノリティ、よくある話だけど。正直アセクシュアルやアロマンティックの人にはおすすめできない作品だと思った。ごめんと言った藍生は何を謝ったんだろう。shiroと共に再発防止を考えてくれるだろうか。

藍生と紫のやりとり、これは加害者ケアの話だなと思った。DV加害者プログラムとか更生プログラムとかみたいな。自分がしてしまった加害行為に対しての自覚と責任を、どうやったら思い起こして認められるのかっていう。被害者と加害者は一つの事象・一つの方向に対しては明確に分かれるとして、その別の事象では同一人物のはずの被害者が加害者になることも、加害者が被害者になる事もある。どうすれば、どう生きれば、被害者にも加害者にもならずに生きていけるんだろう。作中で藍生と紫がやってたように、自分の中の痛みの発生源をしっかりと見つめて認めることから始まるんだろう。

作中での正義という言葉の使い方、私はなんか嫌だったな。不正義を不正義と言わない社会での、正義の反対はまた別の正義とか、正義の暴走、みたいなノリの正義。子供が居眠り運転の車にひかれて死んで、どうしても許せなくて加害者のプライベートを暴き立てて晒した。追い詰めて自殺未遂にまで追い込んだ。その、紫が自分でも正しくないと思ってる行為を正義と呼んでしまうのが嫌だった。悲しい。例えば自分は正しいと思い込んでる人はとめどなく突き進んでしまう、そういう暴走はあるけど、被害者遺族である紫と加害者やその家族にケアが足りなかったのは確実で、正しくないとわかっていても私刑に走るのを止められなかったのは彼女のせいなんだろうか。

作中でハッピーエンドの話が出てた。私は物語におけるハッピーエンドってあまり信じてない。それはただ単に、幸福の上り坂の時に、その絶頂で切り取ったからハッピーエンドだっただけで、切り取られたところでスッパリ終わるはずがない。頂点まで来たらあとは下っていくだろう。ハッピーエンドの先がハッピーである保証はない。逆にバッドエンドだって、いつどこで誰のという条件次第でバッドエンドなのかなんてわからない。藍生が言うように未来がどうなるのか、明るい未来を想像させるのかどうかがハッピーエンドなんだってことなら、いい解釈だなあと思う。

 

以下はあんまりミュージカル『GREY』の物語に直接は関係ない話で、最近つらつら考えてた事。

神田沙也加さんの訃報を受けて『GREY』の公式HPに心を痛めてる人は無理に観劇をしないよう注意喚起があった。扱う題材的に、いいことだなと思った。

自殺報道や犯罪報道のあり方とか、フラッシュバックの可能性のある作品の広告に真っ先に警告が出てこない事とか、日々思うことはある。

プロミシング・ヤング・ウーマン、最後の決闘裁判、由宇子の天秤、比較的最近見た映画で女性への性暴力を含んでいた作品。どれもそれを楽観的に描いたりはしていなかったし、悲しみや苦しみを含めて面白かったと感じたけど、それは私が実際に被害者ではないから楽しめてしまえる。例えば現実で事件の報道で見かけるたびにほんの少しずつ想像する痛みや苦しみ、もうこれ以上見たくないと目をそらす心を改めて指摘されるような感じを含めてエンタテインメントとして消費して、本当に良いんだろうか。私自身が勝手にこれは"簡単に消費させる気のない作品"だと感じて物語化して楽しむこと自体、良くないんじゃないか。それを判断していいのは、そういった物事の被害者だけなんじゃないか。当事者の主体性が尊重されずに描かれる被害の描写を(苦しかったり悲しかったりを含め)エンタメとして楽しんでいいのか。そういう事を最近考えていた。

作品が風刺的で批判性があるから良いという判断は私がして良いのか。現実ではたいして批判されず野放しにされている事柄を物語化して楽しむこと自体が危ういんじゃないか。過激であることや大切な尊厳をネタ化して楽しんでなんとも思わない社会で、現実に被害者が存在する題材を扱うことは非常に難しく恐ろしいことだろうと思う。見る側も、考えることをやめてはいけないんだろう。

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