インクルージョンボックス

私の内包物をつれづれと

『Colors Under the Streetlights』感想

2024年12月15日、テアトル新宿にてColors Under the Streetlightsを見てきた!

夜更けから朝にかけてのほんのひと時だけを、すれ違うように共に過ごす女たちの嘘と虚構と無関心にも似た優しさと当たり前のように寄り添う思いやりと、本当のことを言わないことと相手を無闇に暴き立てないことと、誰にでもあるけどその罪悪感は自分だけのもので誰ともうまくは共有しようがなくて、その夜の空のグラデーションと同じで明けていくしまた更けていくその変化の中に、もっとそこにいたかったなと思った。短編映画ってあんまり見たことなかったけど良いなあ、もっとこの作品の内側に浸っていたいなと思ううちに終わってしまうのが良かった。

ガールズバーで働くキャストたちを送迎するユリカとキャストたち、その夜の間だけ交差する人間関係。親密すぎないある程度距離感のある相手だからこそ心を配れたり寄り添えたりすることってあるよなと思う。

キャストのミチルには身体障害者の夫がいる、働く中で客に役者だと嘘をついて酒を飲んでいると気が楽なのだという。ミチルが嘘、虚構、そんなかっこいいことじゃないかって自分で自分を呆れたみたいに言ったあとの、ユリカとの「逃避かな」「防衛じゃない?」ってやりとりが好きだった。
車から降りてふたりでタバコを吸っていると警官に職務質問をされる。免許証の提示を求められ、ユリカがマエダケンタロウであることが意図せず暴かれてしまう。警官が車を確認するその間、広がっていた距離をすこし詰め、あいつらがどっか行ったらもう一本付き合ってと態度を変えずに寄り添うミチルが、さっきのユリカのサラッとした思いやりと同じ温度に思えて好きだった。

このやりとりを見た後、ポスターにも使われてるあのシーン、ガールズバーのキャストたちが働く姿をバックヤードの内側からそっと覗いていた時のユリカはどんな思いで彼女たちを見ていたんだろうって思いを馳せた。もしかしたら何の障害もなく女性キャストとして働けることが眩しかったかもしれない。けれどそんな彼女たちにも大っぴらに明かしたりしない内側があるのだってもうわかっているのだとも。

ユリカが特別品行方正なわけでも明るくていい人なわけでもないのが好きだなあと思った。迷惑をかけられた分、なのかな、香水を拝借しちゃったりしてね。作中でトランスジェンダーという単語は出てこないが、トランス女性が主人公の作品を当事者キャスティングする中でステレオタイプな描き方にならないのって大事だなと思う。クィアがシスヘテロ向けに誇張表現されて消費されるのはやっぱりかなしいから。

明けない夜はないとかじゃなくて、夜はこっちを顧みずに好き勝手に明けていくけどどうせまた更けていくし、別にその日夜の底にいたこと(いること)は変わらない、誰にでも本当のことを言えるわけじゃないしまた嘘をつく、それでもこのグラデーションの中で浮かんだり沈んだりしながら生きていく。

Colors Under the Streetlightsのサイン入りポスター。イシヅカユウ演じるユリカの顔が写っている。