インクルージョンボックス

私の内包物をつれづれと

企画演劇集団ボクラ団義 -Play Again- vol.8「遠慮ガチナ殺人鬼」観劇感想

2019年1月11日、中野ザ・ポケットにて企画演劇集団ボクラ団義 -Play Again- vol.8「遠慮ガチナ殺人鬼」を観劇。

ボクラ団義さんの舞台は初めて拝見したのだが(前説が20分あってびっくり。恒例なのだそう、すごい。)あまりにも面白くて帰りの電車の中でチケットサイトから追いチケットした。割と序盤のほうの日程で観劇したので、まだチケットが買える段階でよかった。
サスペンスコメディとあるようにハラハラするし爆笑もするんだけど、疑念とミスリードの積み重ねのラストにゾッとする真実が降りてくる。でもそれは最初からそこにあったんだよなあ。すべてが繋がった時の、その答えのシンプルさと、ぐちゃぐちゃにねじ曲がった人間関係と感情の対比にクラクラした。

以下ネタバレ感想です。これからご観劇の方は読まないでください。あと自分用の備忘録として思い起こした順に書き散らかしてるのでとにかく読みにくいです。

1月18日、2回目の観劇をしたので最下部に追記しました!

 

オープニングのダンスとプロジェクションの演出からとてもワクワクした!狭い劇場内にたくさんのキャストがひしめき合って踊り、プロジェクションによって情報が目まぐるしく現れて、これから続いていく怒涛の会話劇のはじまりとして思考のスイッチを入れられたようだった。
目の前で起こる事象の何が真実で偽りなのか、それを考えながら見ていくとまんまと騙されてしまうのがこの作品だった。
実は最初から事実は提示されていて、隠されている部分はあれどそれを自分の目で見ているのに見誤ってしまう。疑うからだまされるのかもしれないし、信じていたって自分の視点でしか物事を見ることができないのだから騙されてしまうなあと思う。
芸術家 霧雨周太郎と息子 隆也の最初の会話、息子は親子だからわかるよと言う割に腹を探るようだった。持ってきたコーヒーをなかなか渡さず、最後に渡した時にはもう冷めて美味しくなくなっていた。その冷めてドロっとして不味いコーヒーを飲んだ周太郎はなんだか嬉しそうに見えた。その後の葬儀のシーンで、ああ息子が殺したんだな、毒の入ったコーヒーで、と最初は思った。
葬儀のシーンがとにかく面白かった!いつまでたっても帰らない十数人の男女、喪主である息子が苛立って早く帰るよう勧めても帰らない。そして警察がやってきて、霧雨周太郎の死には不審な点があると言う。喪主の息子が、自分が殺したことを自白する。そこから始まる十数人の「私が殺した」という自供合戦。混乱する観客の思考とリンクして混乱する刑事。残っていた男女全員が彼の殺害について身に覚えがあると言い合う。ここからのシーン、刑事役の方とフリー記者の方の狂言回しとしての立回りがとても面白くて最高だった。
殺害を自白する男女の供述が、次々と再現されていく。何度も何度も殺される霧雨周太郎、最初は喪主のお嫁さんがやめてと悲痛に叫んでいたのに、殺害が繰り返させるとその悲鳴もなくなっていった。何度も殺されるシーンを、私はどれが真実なのかと思いながら見ていて、その疑念こそが物語にミスリードをさせられていたんだなあと思った。実際に何度も何度も殺されたのだとは思わなかった。
この葬儀場と殺害現場の場面転換が人力でアナログだけどとても鮮やかで、こんな狭い劇場でこれだけガンガン場面転換するのか!と楽しくなった。
殺害を自供する男女のほとんどが、霧雨周太郎に恨みがあるという。恨みがあって殺したのだと。霧雨周太郎は、偽物の絵を高額で売りつけた、贋作の壺を作っていた、母の芸術を私の芸術を汚した、父の芸術を侮辱した。一つの事象でも、見る人の数だけ視点があって、その数だけ真実がある。それらは捏造された真実であり彼らが信じたかった真実で、それでも事実を知ってしまうと私の真実はオセロのコマみたいに簡単に綺麗に反転した。彼らを恨んでいたのは霧雨周太郎のほうで、贋作を作っていたのではなく自分のオリジナルを、妻のオリジナルを、他人の作品として世に出されてしまった。自分の芸術家としての人生を殺し、妻を芸術家としても人としても死に追いやった者たち。霧雨周太郎の憎しみから復讐が生まれ、たくさんの殺意がぐるぐると循環する。
息子 隆也は全員の罪と秘密を暴き、父はこの全員の殺人罪を成立させるために自殺したと言った。そして葬儀場を密室にして父の用意していた壺の復讐計画で自分を含めたその場にいる全員を殺した。
世間一般の中に生きている私の中の常識で考えてしまうと、この物語の凶器である「衝撃ですぐに壊れる柔らかい壺」や「空気に溶けてなくなる壺」なんて存在し得ないと思うのに、それが存在する世界だと認識すると、一番最初から葬儀場に存在していた小道具の壺が消えた瞬間に、これからこの場にいる全員が死んでしまうことがわかってしまう。わかってしまった瞬間、ゾワッと全身に鳥肌が立った。今はまだ目の前の誰も死んでいないのに死を知覚する、壺が溶けて空気に毒が充満していく様を想像する。怖すぎて息が詰まった。
その後、物語が最初に戻るのがとてもいいなあと思った。度重なる疑念から勝手にミスリードしていたけれど、霧雨周太郎を殺したのは最初に思ったとおり、息子の隆也だった。息子の淹れた、冷めてドロッとして不味いコーヒーで霧雨周太郎は死んだんだ。
このシーンを見たとき、愛されてるじゃん!って思った。息子めちゃくちゃ父親に愛されてるじゃないかって。前妻の連れ子で血のつながりのない父と子で、離婚したときにそれでも自分の手元に置いた我が子を、愛してたんだなあって。息子に伝わるように愛せなかったから愚かにも死んだのかもしれないけど、もしかしたら愛を乞うような殺意だから受け入れたのかもしれない。最初のシーンでコーヒーを受け取ったとき、飲んだとき、まずくてもなんだか嬉しそうに見えたから。
息子がなかなかコーヒーを渡せずにいたのも、殺したい気持ちと殺したくない気持ちが巡っていたのかもしれない。
霧雨周太郎の復讐計画は本当はどの形で終わるつもりだったんだろう。罪の意識を持った者たちが集まった所を、空気に溶ける壺で一網打尽って、どのように集める計画だったんだろう。偽装葬儀でもやるつもりだったのか。息子が父の残した復讐計画をきちんと遂行した結果、自分もその中で死ぬことになっているということは、復讐計画の最後に周太郎も死ぬ予定だったのか。それならば、復讐すべき者たちと愛してほしかった父親がともに死ぬくらいなら、自分の手で殺す方に天秤が傾くのかもしれない。

霧雨周太郎を取り巻く周りの人物たちの殺人によって、この老人がどういう人物で人生だったのかが浮かび上がるのが面白かった。彼が最初に土をずっと触っていて、形になりかけた器を壊すのを見て、創造と破壊、生と死の循環をイメージした。日本は土葬ではないので死んだ人間が土に還るってことはあまりないけれど。
土を捏ね良いものができそうだと思うとそれを壊してしまう、欲が入って良いものにならない、最初はただ芸術家らしいと思ったこのセリフも、真相を知ると悲しくなった。霧雨周太郎にとって自分の作品というものがとても不確かで悲しい。自分自身の感性と実力でオリジナル作品をどれだけ産み出しても、自分の作品ではなく著名な作家の作品として世に出ていき、本物であるはずが類似した作風だと思われる。いいものを作りたい欲も作れる力もあるのに作り出しても似た作品や贋作としてしか存在できない。無力感は憎しみになる。その憎しみが、血のつながりはなくとも守ろうと思った息子の手によって終わりを迎えたのは幸福だったのかもしれない。
起きている出来事はひとつなのに、誰から語られるかどの視点から見るかで全く違う真実にたどり着いてしまう怖さ、全容を知った瞬間にあっさりとすべての認識が逆転する残酷さ、被害者と加害者すら簡単にひっくり返ってしまう。最初は好印象を持てなかった霧雨周太郎をきっと観劇後哀れだと思う人は私含めたくさんいたと思う。でも、多くの人に嫌われ疎まれ恨まれ利用され殺されるくらいには、いい性格で嫌な奴であったのも事実なんじゃないか?人はとても多面的だから、それでも誰かにとっては愛さずにいられない人だったんだろう。
才能に溢れた小説家や芸術家が神さまにでもなったように生み出した物を俯瞰で見ている状態でないかぎり、誰も何も正しく真実ではないし、人はあまりにも簡単にコロコロと気が変わる残酷な生き物なんだということを突きつけられたようだった。自分の考えすらまともに信じられやしないっていうのはなかなかにホラーだ。
なにも考えずに見られる娯楽作品も大好きだけど、久々にぐるぐると思考を巡らせながら観劇ができてとてもとても楽しかった!追いチケットした分の観劇がこれからなので、また違う感情の動きがあるかもしれない。それも楽しみ!

2回目は霧雨隆也の感情を見たくて注目して見ていた。つまらなそうな顔、冷ややかな顔、貼り付けたような取り繕った苦笑、侮蔑したような笑顔、怒りや憎しみが煮詰まって激昂した顔、感情が削げ落ちた顔、計画をきちんと遂行しようと緊張した顔、この世でいちばん心底憎んで愛した人が死んだ安堵と諦念の顔。1度目では気が付けなかったたくさんの内なる感情の起伏を感じ取れてよかった。
心底憎らしいはずの復讐すべき者たちが無様に哀れに泣き叫びながら絶望しながらヘドロのような罪の秘匿や暴露をしている時にも、ひどく淡々と冷静に、それでも張り詰めながら時計を気にして、壺を気にしている姿を見てゾクゾクと鳥肌が立った。誰にも気づかれないところでひっそりと時計に視線をやるところ、確認できた限り3回あった。(見落としや見間違いもあるかもだけど)1度目の観劇のとき、一番最初の喪服への着替えの時にも時計を見ていた気がしたんだけど、やっぱり見ていた。今日あらためて見てゾッとした。
霧雨周太郎と霧雨隆也の親子の泥だらけの愛憎がものすごくやるせなかった。遠慮ガチナ殺人鬼の血の繋がらない息子は、血が繋がらないのにものすごく父親に似て遠慮ガチナ殺人鬼で、血なんか関係なく悲しいくらいに親子だった。手助けだけでいいなんて言っておきながら、一番大切な人だけは直々に殺し、無関係な人間も含めたあれだけ大量の殺人を父の望みを完遂してしまう。親の呪いが子供にまで連鎖していくことがあまりにも悲しい。それは霧雨家だけじゃなく、望家も春夏冬家もだけど。二回目だから泣かないかと思ったんだけど、ラストシーンでやっぱりウルウル来た。駅まで涙目で帰った。ハッピーな作品ではないけど、ものすごく面白い作品に出会えてうれしかった。見たかったものをきちんと見られて大満足。パンフレットと台本を買ったので読むぞ!

f:id:inclusionbox:20190113214201j:plain