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ミュージカル ハムレット 観劇感想とシェイクスピア劇に対する雑感

2019年11月16日、博品館劇場にてミュージカル ハムレットを観劇!

シェイクスピア劇をきちんと見るのは初めてで(ナイツテイルは見たけどちょっと例外的作品かなと思うので)理解できるか不安だったけど、鮮やかで目まぐるしい世界観の中次々と連鎖していく復讐劇の末路を追っていくだけでも面白かった。
シェイクスピアならではの少しクドいくらいの言葉づかいが音として耳に入る時の不可思議な楽しさ、遊び心、案外気張らずに見に行っても楽しめる作品なんじゃないかな?って思わせてもらえたのは大収穫だった!
以下ネタバレ感想です。

 

原作ハムレット全く知らないまま、脚本演出の方が「アナザーワールドハムレット」とおっしゃる作品を見ていいものかと思ったけど、何だって楽しんだもん勝ちだと思うので違った解釈もまた良しと思ってください。

まず観劇後にパンフレットを読んでびっくりした。ガートルードに王位継承権があることや、フォーティンブラスとハムレットが兄弟であることや、ハムレットデンマーク王の実子ではないっていう設定が原作にはなく、このミュージカルハムレットの独自な設定だと(数あるハムレット研究の一説を採用したもの)。話の大筋は変わらないけれど、この要素を入れることでより愛憎や血のしがらみを濃密に描けるようにしたのだと。ものすごくびっくりした(笑)

亡き父の亡霊はハムレットに、自分を殺し妻と王位を奪った新しいデンマーク王である叔父クローディアスに復讐せよと言う。ハムレットは終始悩み、もがき、苦しみながら、父に母に愛を乞うて、自分に迷い、最後に答えにたどり着いて死ぬ。迷うことこそがハムレットの人生で生き様で、迷うことをやめたときハムレットの物語は終わるんだなと思った。

ハムレットの父が同じくハムレットであるように、ハムレットと先代デンマークハムレットは鏡合わせの存在であり、乗り越えなければならないしがらみでもあった。他にも鏡合わせの存在がたくさん出てくる。先王ハムレットと叔父クローディアスは同じ役者が演じる似通った兄弟で鏡合わせの存在だし、ノルウェーの王子であり(この作品においては)ハムレットの兄であったフォーティンブラスもまた父と同じ名前を与えられた息子という鏡合わせの父子であると同時に、同じ境遇をもつハムレットの鏡合わせの存在だ。そして殺された父親の復讐に燃えるハムレット、フォーティンブラス、レアティーズも。ここまで意図的に組み込まれるとパズルのようで面白い。

ハムレットが亡霊に従いクローディアスへの復讐心を募らせた要因がいくつも考えられた。父の亡霊からの殺人教唆が父からの愛の証明のように感じていたからかもしれないし、先王の死後すぐにクローディアスと再婚した母への失望と怨みからかもしれない。同じ名前を持つ鏡合わせの父を母が裏切ったのなら、自分が裏切られたも同然、母が父を王として扱うことこそが、ハムレットにとって母からの愛の証明だったのかもしれない。親からの呪いに囚われて彷徨っているように見えた。

ハムレットの母であるガードルードは王位継承権がある。ある意味で王冠の擬人化で権力の象徴で、男がガートルードを巡って戦争が起きる。この設定少し不思議で、昔のお話だからだろうけどガードルード「が」王を選ぶんじゃなく、ガートルード「を」獲得したものが王になるんだ。彼女に選択権はなく、強いものに求められるがまま流れていく。

オフィーリアはハムレットにとって幻想の母だったように思う。今はまだ慎ましやかで美しい一途で無垢な、かつての母のような女性。いずれ淫乱になるのなら尼寺へ入れ、つまり永遠に美しいままでいろと言う。恋に落ちていく過程が描かれないまま、惹かれている事実だけ提示されるから余計にそう感じるのかもしれない。

誤ってオフィーリアの父を殺した時に、母へ何度もおやすみと言うハムレットは死を思っていたのだと思う。眠りと死を重ねる歌を歌ったその口で、何度も何度も眠りのあいさつをして、誰の死を思っていたのか。母にもおやすみと、もう死んでもいいと許してほしかったのかもしれない。

ハムレットの亡き父である先王ハムレットをはじめ、何度も何人も死者が舞台の上にいて、そこからじっと生者を見ていた。ハムレットが見ている父の亡霊がほかの誰の目にも映らないように、何人もの死者もまた誰の目にも映ってはいない。客席からは確かに見えているのに。ホレイショーとフォーティンブラス以外が死に絶えた無残な舞台上で、先王の亡霊が生き生きと、倒れた死者たちの手を引きダンスでもするように身体を起こしていく。妻ガートルードも、息子ハムレットも、ついさっきまで死体だったのに踊るように身体を翻した。生者と死者の境目がひどく曖昧で、混沌とした、美しい世界観だった。

親からの愛情に懐疑的で自我が希薄なまま成長したハムレット。彼は自分に父殺しの復讐しようとするレアティーズとの決闘を前に全ては自分の意志だと言った。生と死の間で、自分の因果が生んだ同じ復讐の連鎖の中で、父親の亡霊の声は本当は自分の声だったことに気がついた。最後に、復讐劇の発端、母ガートルードを巡った戦争で先王ハムレットに殺され父王を失った王子フォーティンブラスへデンマーク王を継承し、ハムレットは死ぬ。順繰りと、復讐劇がきれいに巡り巡って終わった。たくさんの狂気と悲しみと死が充満しているのに、なんて美しい終わりなんだろうと思った。初めてちゃんと観劇したシェイクスピア劇だけど、とても面白かった。

矢田ちゃんが推しの人は幸せだ。THE CIRCUSやドッグファイトやアルジャーノンぶりに彼を見たけれど、好きな人がこんなにいろんな面白い作品に導いてくれるってなかなかないと思う。やっぱり歌がものすごく上手いし、声の響き自体は透明なだけでない清濁があるのに、なんてクリアに言葉や感情がこちらに届く歌声なんだろうと思った。

オフィーリアについてほとんど触れられなかったけど、皆本麻帆さんの歌声の透明感がものすごかった。聖歌隊の賛美歌でも聴いてるのかと思うような透き通る歌声。慎ましやかな女性としての演技と、気が狂ってしまった時の演技、歌声や身のこなしの違い、ゾワッと鳥肌が立った。また素敵な役者さんと出会えてうれしくなった。

シェイクスピア劇を見て思った雑感

ここ何年かで古典というか、レミゼやオレステイアとか古い時代の作品を見ることがあって、そのたびすべては男の物語だなあと思ったりした。先日観たつかこうへいの売春捜査官ギャランドゥも、序盤からかなり違和感と飲み込みにくさを感じる古い作品だなと思った。見ながらこの言葉選びのまま現代でやる意味はなんだろうって考えるのはすこし面白かった。今回のハムレットもそう、物語の中で女は自由意志のもと生きることは許されていない。シェイクスピア劇としては新作だったナイツテイル騎士物語だって、エミーリアやヒポリタやフラヴィーナの扱いについて、シェイクスピア作品の中では現代的価値観に寄せたアレンジがされているって意見や、逆に現代的アレンジはあったが要素が足りてなくて中途半端だという意見もあった。当然なんでもかんでも現代の価値観に置き換える必要はない。古い価値観や時代の世界を舞台にした作品でも、作り手側の意識によって見た時の感じ方は違ってくる。それは現代劇だって全く同じだ。女性蔑視的な価値観が根付いていてその事に気づいてない人の作る物語は、時代感覚と合わなくて違和感があったりダサかったりするし、女が下に見られてる空気を肌で感じたりする。物語はすべてある意味ファンタジーだけど、虚構としてのリアリティも地に足のついた現実感としてのリアリティも薄い、ぼんやりと解像度の低い世界に思える。違和感も不協和音もコントロールされた上での演出ならば今後も残っていくし、無自覚に撒き散らされたものなら、それはきっと淘汰されるものなんだろう。

何度も何度も作り手を変えて上演されるシェイクスピア劇は、当然作劇として優れているから手を変え品を変え上演されているんだろうと思うけど、時代とともにきっとかなり表現の形を変えているんだろうなと思った。

 

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