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私の内包物をつれづれと

真夜中の弥次さん喜多さん 三重 観劇感想

2018年6月23日、シアターGロッソにて真夜中の弥次さん喜多さん三重 昼公演を観劇!

一番最初の弥次喜多は配信で見て、これはヤバイやつだ!(褒め言葉)と思って二作目の双を観劇して、生で見たら余計にヤバイ作品(褒め言葉)で最高だったので三作目の三重ものすごく楽しみにしてました!以下、思ったことをそのまま箇条書きで吐き出しているので支離滅裂がひどいネタバレ感想です。

明日24日までの公演なので気になる方は当日券チャレンジでGOですよー!!!

 

今回も見ていて脳みそグルグルになる、カオスで極彩色の悪夢みたいな最高に楽しい茶番だった。生と死と愛と、現実と妄想と偶像と、はじまりとおわりとくりかえしがぐちゃぐちゃで平衡感覚なくなる感じ。たくさん笑って、少し泣いて、楽しかった。

やっぱり弥次喜多って愛と生と死の話だと思った。死への幻想というか憧憬みたいなものがあちこちにふわふわと漂っている気がする。死ぬ事へのあこがれは生きる事へのあこがれだし、はじまりを繰り返すのは終わることの失望を回避したいからだ。
一番最初に喜多さんが死んで、それでも喜多さんは鼓動がないまま動き回る。その時点でどういうことなのっていう混乱がすごい。
眠りが死の兄弟なら、夢を見るのは死の疑似体験かもしれなくて、弥次喜多は何度も悪夢から覚めたように布団から起き上がってリセットがかかる。
どこが夢でどこがリヤルなのかわからなくて、ぜんぶ弥次さんの現実逃避かもしれないし、喜多さんの死ぬ間際の夢かもしれないし、喜多さんが死んだこと以外すべて夢かもしれないし、喜多さんが死んだことも夢かもしれない。本当はぜんぶリヤルかもしれない。
鼓動がなくても喜多さん自身だけど、鼓動は自分の一部だし、自分の一部がなくなると不完全で、不完全なままの自分では正しく弥次さんを愛せない。一番最後の茶番中の茶番な愛の告白で生き返るシーン、自分を取り戻すには弥次さんの愛が必要だったってことなのかなあ。愛されている今を確かめてみないと生きていられなかったのかもしれない。

今回、万ジョン次郎がすごかった。万ジョン次郎の失望を先取りして回避しようとする心の動きがすごくせつなくて好きだった。お伊勢さんを目指してる弥次さん喜多さんにとっては迷惑極まりないけど、終わることの失望を回避したくて何度も彼らをふりだしに戻して、始めることすら拒絶する姿はいじらしい。
オカマの仏さんは、始まれば終わるし終わればまた始まる、死と再生はセットだということを知ってるからドッシリしてたなあ。万ジョン次郎との対比で大人と子どもみたいだった。
万ジョン次郎が用意した刺客である、4人組アイドルのふらわああれんじめんと。弥次さんには本来のただの野の花である姿に見え、喜多さんをはじめとするお薬キメちゃってる大勢の人々にはアイドルに見えるっていう設定だけでもぞっとするものがある。大多数がそう見えると言えば、本当に正しいかどうかは関係なくそうなってしまう。
花を一方的に自分の都合で愛でることができるのは花にわかりやすい感情がないからで、愛でられる花に感情があり、それがわかってしまう状況というのはなんだか恐ろしい。人にも当てはめられてしまうからこそ、うすら寒くなってしまう。
花として生まれて成長して、花が咲いてるあいだ愛されて、きちんと枯れる事の正しさが悲しい。ただの野の花が花屋の一本数百円の薔薇みたいにきらびやかなアイドルになって感情の激流に晒されて、偶像のままでいられなくて、元の名も知られない花に戻り枯れたのが寂しいと思った。万ジョン次郎が花たちのこと、名前があったのに呼ばなくて、最後の最後に呼ぼうとしたら枯れて消えたのがすごいせつなくて泣きそうになった。
紫の花の子と喜多さんのやりとりは、最終的に花の色仕掛けに屈することなく弥次さんを選んだ喜多さんという視点では美しい愛の物語だし、最初は目的のために近づいたはずなのに喜多さんを好きになって、しかも愛してほしくなってしまった花の視点では悲しい愛の物語だったな。
始まりが尊いのは終わりがあるからで、花が美しいのは枯れるからで、ずっと終わらなければいいのにって思いも、ずっと美しければいいのにって思いも、終焉を理解していなければ生まれない心の動きなんだよな。永遠に終わらないものも永遠に美しい花も存在したならきっと、有限なもののように強烈に心には残らないんだ。永遠に続くとどんなに素晴らしいものもきっと当たり前のものになってしまって、色あせ輝きを失ってしまうんだろうな。

ヘソの宿について言及しそこねた。ヘソの宿めちゃくちゃ怖かった。人の想像しうる全てがあるはずの、例えば水着を着た女が脇に銀杏挟んでる宿とかそういう全部あるはずの世界で宿を探して船に乗って、いろんな宿に目移りして、気がついたらすべての宿を通り過ぎて、終点の滝についてた。気づかないうちに全部通り過ぎて、立ち寄れる船着き場はなくなって、もう滝から落ちて終わるだけ。見過ごしたすべてに引き返せず、元いた場所にも行けず。行きたいところに行くには一度しかチャンスはない恐怖。でも、行きたいかは別としてどっかにはたどり着いたりする弥次喜多。そのどこかが天国か地獄か、お伊勢さんなのかお医者さんなのかもワカランけど、弥次喜多が一緒ならどこだって極彩色の悪夢みたいなリヤルよね。ペラペラのお江戸じゃなくって。

そういえば前作の双の時、見に行って楽しかったのに感想を整理してなくて、漁ってみたらこんな雑然とした感想メモがあった。三重の感想とかぶってるところもあり、弥次喜多ワールドって感じだ。

失われないと価値が分からない、自分のこともそう思われてると感じて自分を失わせようとする喜多さんいじらしいなあ。喜多さんは死に憧れているのかと思ったのに、弥次さんを道連れにしたいとは思わないんだな。
愛と肉欲を分けるために結婚したら背中を契りの糊でくっつける里の話なんかかなしくなった。死んだ妻を背中につけたまま、その姿形も忘れたのに、死んで腐った妻をすべて溶けてなくなるまで背負い続けるのは愛と呼ぶんだろうか愛と肉欲が混ざりあわないように背中合わせで暮らすのに、肉欲は誰かほかの人と解消するし、その時愛している相手は背中合わせで近くにいるなんて地獄絵図だ。
晩餐会こわかったな。食卓にならぶごちそう、三途の川でしかとれない魚の料理、弥次さんの魂。フォークを突き立てて血が溢れてようやっと正気にもどる喜多さん。正気の喜多さんは、弥次さんの魂は食べたくないんだなあ。食べてひとつになったら、糊の里の背中合わせよりもつらい孤独だもんな。
ループ、メビウス、ふりだしに戻る。延々と。弥次喜多はいつまでもお伊勢さんにはたどり着かなくて、無意味なことを何度も積み重ねて、その積み重ねが旅で、ずっと終わらない旅が続くんだな。でも同じ道ではないかもしれないし、気づかないうちに失われているものがたくさんあるのかもしれないよなあ。
弥次喜多って愛と生と死についてを延々と描いてる感じがする。