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ミュージカル アルジャーノンに花束を 2017 観劇感想

2017年3月12日 ミュージカル アルジャーノンに花束を 銀河劇場にて観劇。
感想を残したいなと思いつつ、上手く言葉にできなくて、観劇してからずいぶんと間があいてしまった。
アルジャーノンに花束を、題名自体が秀逸すぎてずるい。その意味が分かると本当に悲しくてやるせなくて、優しい気持ちになる。
ものすごく面白かったし、ものすごくかなしかった。素晴らしい作品を見られて本当によかったと思う。

今回ものすごいミーハー心でチケットを取った。プロデューサーの栫ヒロさんが主演の矢田さんを大絶賛していて、その語り口がまるで恋でもしているように心底惚れこんでいたからなんだけど、本当に素晴らしい歌声だった。
パンフレットにも少し載っていたけど、矢田悠祐さんのことを「真紅と夢色の蜃気楼」だとおっしゃっていた。
以下ナタリーからの引用(http://natalie.mu/stage/news/202207

魂を一瞬にして掴まれた。
私の心はえぐられ、魂は鷲掴みにされ、心と魂とに太い“美”という名の杭を打ち込まれた。
なんと素晴らしき声、君の声は神から授かりし真実の美しき、聞く人の胸に確かな感動と熱情を届ける事が約束される声……矢田悠祐の歌を偶然に耳にした瞬間「アルジャーノンに花束を」のチャーリーのキャラクターは彼しかいないと確信しました。キャスティングをする時、特にミュージカルに関してはビジュアルを先行させるか歌唱力を重んじるか迷いますが、やはりミュージカルである以上、その人の歌声がどう聞く人たちに伝わるかが大切です。「アルジャーノンに花束を」は浦井健治を想定して書き下ろされた作品ではありますが、あの素晴らしい数々の楽曲の魅力をあらためて多くの人たちに伝える為には神が授けしほどの珠玉の声と歌唱力を持つ人材でなければならないのです。

この圧倒的な熱量に惹かれてチケットを取ったんだけど、本当に見に行って良かった。

幕が開いて、ストーリーに入り込んだ瞬間から、ミュージカルの楽しさがすごく詰まった作品だと思った。歌が感情を増幅させる、メロディがストーリーに彩を加える。チャーリィが知性を身に着けていく様子が、姿勢や言動や服装だけでなく、歌のみでもはっきりと伝わってきて圧倒された。

チャーリィが手術を受ける前の歌声は、幼稚であり無垢であるのがよくわかるトーンと歌い方なんだけど、キラキラと無数の星がきらめく宇宙のような広がりがあって、手術後に知性を身につけた時は、理知的な成人男性としての低くて伸びやかな歌い方で、そこには自信と知性が満ちていて、すごいなあって思いながら聞いていた。「ぼくわかしこくなりたい」という不安とそれ以上に希望に満ちた幼い歌声と、夢をかなえ自信に満ちた大人の歌声が、こんなにも自然に歌い分けされるのかと驚いた。

チャーリィが知性を身につけていくにつれ、知らなかったほうが幸福だったかもしれない事実をたくさん知ることになる。本当なら長い時間をかけて地層や年輪ができるように知っていくはずのことを、まるで無視して早送りするように知っていくから、理解と納得が追いつかない。妥協ができない。誰もが経験するはずのことではあるけど、それを急速に知っていくことで、分散して知るはずの苦しみが一気にやってくるようで見ていて苦しかった。知性を身につける前のチャーリィが持っていた笑顔が、急速に失われていくのが悲しかった。
でも周囲の反応だって、理解できるから余計に苦しい。自分よりも下位だと思っていたものが急速に自分よりも優れた存在へと上っていくのを感じたら、不安と焦りから軽蔑が恐怖へ転じて、遠ざけようとするのは自然なことだとも思う。異端を嫌うのは今も昔も普通のことだから。

「ぼくわかしこくなりたい」チャーリィが言い続ける言葉。何度も何度も、かしこくなりたいと言う。母に叩かれて妹に嫌われて父に諦められて、かしこくなれば愛してもらえると思っていたから。チャーリィは愛して欲しくてかしこくなったのに、かしこくなればなるほど愛はまた遠のいてしまうのが悲しかった。
知性を身につける前のチャーリィは、勇気があった。愛されなくても愛することができる勇気、愛されていないことを知っても笑顔でい続ける勇気、チャーリィが笑うから周りも自然と笑顔になった。けど、多くを知るたびに無邪気に笑えなくなって、報われない愛を乞うことも怖くなってしまった。
学生のころ原作を読んだ時、チャーリィがなんでアリスを好きでいながらフェイを抱くのか理解できなかったけど、今は理由がわかるから、つらかった。アリスには失敗できないからだ。失敗したら終わりだと思ってしまう相手だからだ。フェイは壊れた扉から好き勝手使っていい非常階段で、酩酊のなかで遊ぶ遊園地だから、失敗したって大丈夫なんだ。フェイは昔のあなたの方がよかったなんて言わない、今のかしこいチャーリィしか知らない、今のあなたが最高よって肯定してくれる人。フェイもチャーリィと同じさみしがり屋で愛を乞う人だから、お互いがちょうどよかったんだ。

アルジャーノンの演出がとても良かった。アルジャーノン自身が人の身体を介してそこにいてコンテンポラリーダンスで感情表現をすることで、チャーリィとのライバル関係を経てお互いにしかわかり合えない存在になっていくことや、チャーリィがアルジャーノンと同じ境遇をたどることを示唆しているのが自然とわかったり、孤独な心の支えとしてそこにいるのが伝わったりした。お茶目でかしこくて人間味のあるアルジャーノンがいることで、チャーリィがアルジャーノンに勇気をもらっていて一人ではなかったんだとよりリアルに感じられた。

原作を読んだ時も怖かったけど、だんだんと知性が失われていく様が本当に怖かった。急速に得たのと同じ速度で、急速に失っていく。スムーズにあらゆる語彙を操って話していたチャーリィが、手足を奪われたように語彙を失って、もがくようにつっかえながら話す。自分で書いた論文が理解できない。手のひらから砂が落ちるように、失う感覚だけが明確に残ってしまう恐怖と苦悩がどんどんと迫ってきてつらかった。
その時死んだ後のアルジャーノンをどうするのかを気にしたのは、死後の自分の末路を見ているようだからだ。自分は失敗作だ、同じく失敗に終わったアルジャーノンは、それでも自分に希望と勇気を与えてくれた。チャーリィが自分の終わりが見えてなお、最後まで続けた研究こそがアルジャーノンへの花束だった。アリスへの感謝も然り。かしこくなりたいという願いを叶えてくれたアリスへ、感謝の気持ちを伝えるために最後の最後まで研究を続け、経過報告書を記し続けたのは、もうラブレターみたいなものだと思う。

ラストシーン、もうほとんど知性が失われたチャーリィはそれでもアルジャーノンの墓へ花を送って欲しいと願った。それは哀れんで欲しいんじゃなくて覚えていて欲しいだけなんだと思う。失敗作でも必死に生きて、だから必死に死に向き合った命があったことを認めて欲しいだけなんだ。頭をなでて欲しくて、笑って欲しくて、愛して欲しくて、でももうそれを望めないからせめて。
だって、もう記憶すら失った状態でも、かしこくなりたいってアリスに言うんだから。笑顔でかしこくなりたいって。

チャーリィは幸福だったのか、不幸だったのか。かしこくなりたいという願いを叶えることで知った悲しみも人の醜さも、チャーリーが自分で選びとったものだから、誰にもそれを奪えない。完全なハッピーエンドではないからこそ、単純な不幸話でもない、幸福と不幸の違いはどこにあるのか考えさせられた。チャーリィの知能が再び後退すること、それは結果としてはネガティブだけど、もし人生の分岐点を選びなおせたとして、チャーリィはやっぱりかしこくなりたいと願うんだと思う。その全てを簡単に不幸と呼んでしまうのは傲慢なのかもしれない。人が見て納得のいかないこと、理不尽だと感じること、その全てが当人にとっての不幸ではないのかもしれない。もしかしたらそうであって欲しいだけなのかもしれないけれど。

カーテンコールの後のあいさつで、役からふと解き放たれた矢田さんが泣いてしまって、横からアリス役の水さんがチャーリィって声をかけながら肩に手を置いて慰めていたのが印象的だった。チャーリィのすさまじい人生をお疲れさまでした。

また原作を読み返したい。あの淡々とした経過報告書の体でつづられていく原作の、少しずつ語彙が増えて表現が広がって知性を身に着ける喜びから、またどんどんと語彙が減りひたひたと迫る焦燥と悲しみを読み返してみたい。以前読んた時とはまた違うことを感じると思う。

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