インクルージョンボックス

私の内包物をつれづれと

映画『片袖の魚』感想

知ることの不可逆性を思った。

まず知ること、気がつくこと。何も不完全ではないということ。自分を片袖の魚だと思って生きる人の事を知らなくても生きていくのに何も支障がなく、その存在を知らされればむしろ何かを奪われ損なわれたように感じてしまうほどに無自覚なお前が、痛みを知らずになんの悪意もなく無邪気に笑っていられることの特権性を知れと、言われたような気がした。ただ知ったくらいでは何にもならないが、知る前には戻れないはずだ。

また別の意味で、知ること(知られること)の不可逆性を思った。

ひかりの痛みや怯えや期待や覚悟や失望を、その内側の苦悩や葛藤をまるで知ることなく、ただ歪んだ偏見のままに彼女が彼ではないことを知った故郷の友人たち。ぼんやりとした"うわさ"から"事実"になった途端に土足で踏み込んで好き勝手に暴いていいことになる。当時からなんとなく"そう"だと思ってた、このサッカー部の中なら誰が"いい"のか?、俺は差別とかないから、いつから"そう"だったのか。

『片袖の魚』はとても静かな映画だった。フィクションだけれど、きっと日常にいくらでも起こり得るエピソードを過剰に劇的にすることなく淡々と描く。静かだからこそ、自分の中の声がよく聞こえる気がした。

作中で何度も何度も襲われる水槽にもぐったようなボコボコという水音、世界から自分の足元が揺らいで意識が遠のいていく音だ。ひかりが自分の望まぬ水槽に閉じ込められていることに、何度も何度も気付かされる。お手洗いを借りようとすればモゴモゴとだれでもトイレを勧められ、仕事の話をしているのに不躾に性別を問いただされて説明をさせられる。まるでそれがトランスジェンダーの義務であるかのように。

「はい、お嬢さん」学ランを着て、サッカー部に所属して、親の名付けたコウキという名を名乗っていた子にそう呼びかけ、好きだと言うクマノミのフィギュアをあげる店員のおじいさん。ひかりがそういう救済を望んでいたから見えた幻想なんじゃないかと思えるくらいに幻想的で、今なお彼女を支え続ける存在なんだ。

話は変わるが、ひかりの職場になんの理由もなく当たり前に車椅子ユーザーが働いていて、そういう描写もいいなあと思った。障碍者セクシャルマイノリティの存在がエンタテインメントの中で何かに付けて理由を与えられたり感動消費の材料されたり殺されたりするの、案外ストレスだったんだなと思った。

ひかりと同じトランス女性の千秋が働くバーは、ほの暗くてでもあたたかい色の光が灯ってる。同じコミュニティーの人たちが集まれる場所、あのバーの中はひかりが思う澄んだ水槽とは違うかもしれないが、安心できる場所なんだなと思う。高校時代の同級生に自分の今の姿で会うかどうかを悩むひかりに、千秋がおそらく自分のパートナーを指し示しながら背中を押す。自称ノンケなんてたくさんいる、というような事を言ってた気がした(一度しか見てなくて覚え違いかもしれない)が、性のことってそれくらい境界が曖昧なのかもしれない。私は世の中の異性愛規範や恋愛伴侶規範によって後天的に異性愛者にさせられてる(苦しんでる)人は多いんじゃないかと疑ってるから。

同級生の敬からの電話に、ひかりとしての普段どおりの声で出たのに、少し咳払いをしてほんの少し低い、きっとコウキとして違和感のない声を出して会話しだすのが、なんだか切なくて、波打ち際で足元の砂がどんどん波に持ってかれるような心許なさを感じた。

ひかりの勇気と決意を知っている私から見ると、敬は本当にひどいやつだった。敬からひかりに食事をしようって誘ったのに、そこにはサッカー部の面々が勢揃いしてる。たくさんの小汚いスニーカーを見て、きれいに身支度をして現れたひかりに対する敬のおどろく顔を見て、ここは戦場なのだと心を固くする姿が痛ましかった。ひかりが部屋に入った途端に固まる空気、誰だかわからなかった、部屋間違えてますよだって言うとこだった、すごい美人、当時からなんとなく"そう"だと思ってた、このサッカー部の中なら誰が"いい"のか?、俺は差別とかないから、いつから"そう"だったのか。何を言われても愛想笑いでやり過ごす、なんでやり過ごさないといけないんだろうな。アリだとかナシだとか、なんでお前らに好き勝手ジャッジされないといけないんだろうな。

敬やサッカー部の面々からすれば、久々に帰ってきたコウキと飯食って酒飲んでワイワイやろうって気持ちだったのかもしれないが、既に地元でうわさになっているひかりとどう好意的に食事ができたのか疑わしいと思ってしまう。結局は無遠慮で不躾なセクハラを浴びせることになったんじゃないかな。帰る道すがら、敬がひかりにサッカー部のみんなからのメッセージ入りサッカーボールを手渡す。青春の思い出ってやつなのか、マジで最悪のプレゼントすぎて笑ってしまった。断絶だ、何もわからないんだなって。彼女の期待した恋愛感情が成就すべき受け入れられるべきだなんて別に思わないけど、セクハラにひとりで耐えて的外れな優しさもどきを受け入れろなんてもっと思えない。ひかりがそのボールを敬の後頭部にぶち当ててくれてスッキリした。

故郷との決別をして東京へと戻る新幹線はまるで水槽の中みたいだった、あるいは電車の外が水槽なのかもしれないけど。窓際の縁でひかりを救ったクマノミのフィギュアが、己の両ヒレで倒れることなくスクっと立った。千秋のバーで迷っていた時は何度も何度も倒れていたのに、もう迷いはないというように。東京の夜は暗闇の中にピカピカ明かりが灯っていて、ひかりは柵から抜けるように、クマノミ色のワンピースをヒラヒラと揺らしながらピカピカの夜を自由に泳いでいた。

きっと大切にしたかった生まれ育った場所、そこから抜け出していまを生きている。嫌いにならずに済むならきっとそのほうが良かったけど、自分を大切にしてくれない場所ならその場所を愛さなくた、愛せなくたっていいに決まってる。でもその故郷でだってあんなふうに、自由にヒラヒラと泳いでよかったはずなんだ。それを彼女に許さなかった存在を思うと悲しかった。

先日ツイッターで、主演のイシヅカユウさんがひどい誹謗中傷を受けていた。女性の権利を守れと主張する人が悪意を感じるほどトランス女性に攻撃的だったり、見た目も仕草も女性らしくしろと言われることに抵抗してきた人がトランス女性にはそれを求めたりするのを見て、片袖の魚の中ではセクハラもジャッジするのもシス男性ばかりだったけど、きっとシス女性も同じくジャッジする側にいるんだろうと思った。

 

片袖の魚を見ながら思い出したことがあった。私は学生時代、友人にレズビアンであることを告白されたことがある。正直彼女と私はそれほど親密なわけではなかった。私と彼女には共通の友人がいて、その子が好きなのだと。告白すべきかどうか悩んでいたのだろう。

私は当時恋愛的に誰も好きにならない自分についてすこし悩んでいた。周りは彼氏がどうとか好きなタイプだとかの話をするし、私が好きな男性アイドルについて誰が好きで付き合いたいのかを聞いてきた。初恋の人は誰でどんな人なのかとか。それにうまく答えられないとシャイで照れ屋だとか、空気読めないだとか、盛り上がらない奴という扱いを受けた。初恋の人についてうまく話せないときに、初恋の宝石でもいいよって言ってくれた子がいた。多分助け舟だったし、私は子供の頃から宝石が好きだったから、初恋の宝石について話をした。その時のその場の空気のことは覚えてない。多分すごく白けたと思う。

きっととても勇気を出して伝えてくれた彼女に、私は人を好きになったことが無いからよくわからないけど、人を好きになれるのは才能だしすごいことだと思うと伝えた。彼女は泣いてたし、私も泣いてた。この答えは今思うとたぶん全然正しくないけど、当時はこんなふうにしか言えなかった。その後私たちは卒業して、いま彼女がどんなふうに過ごしているのかは知らない。

私はいま泣いていない、彼女も泣いていないといい。

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