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私の内包物をつれづれと

舞台「どろろ」観劇感想

2019年3月10日、3月13日、サンシャイン劇場にて舞台「どろろ」を観劇。
どろろ手塚治虫先生の原作しか読んでおらず、アニメは履修していないのでアニメを見ていたらまた違った感想を持ったのかもしれないなあと思いつつ、原作と舞台でのキャラクターの捉え方や表現の違いがいろいろあって面白かった。知っている役者さんも知らない役者さんたちも皆さまとても素晴らしく、舞台の上で醜くも必死に生きて、その中で必死に死んでいく者達もいて、いい役者さんが集まった舞台だなあと思った。
以下ネタバレ感想です。

 

主人公の百鬼丸は、原作だとかなり人間くさいキャラクターとして表現されていたので、旅の途中で助けた村の住民たちにことごとく追い出されたりするのを(自己防衛として理解できつつも)理不尽でかわいそうだと感じるのだけれど、舞台の百鬼丸は、ものすごく人間味が薄く表現されていた。その身に降り掛かった災厄は原作も舞台もほぼ同じなのに、ものすごく化物寄りに、人あらざる存在として不気味に描かれていた。むしろ原作の百鬼丸のほうが不自然なほど人間くさかったのだなあと、舞台を見て気付かされた。原作は、自身を人間だと捉えている百鬼丸の視点から描かれているからあれほど人間くさく、舞台版は客観的に百鬼丸を見た時の姿だからあれほど自然に化物じみているなのかなと思った。
あと原作のどろろは、たくさんの死が描かれているものの、その死の表現が割と淡々としていて、舞台ではそのひとつひとつがかなりドラマティックに描かれるところも逆転しているなあと思った。死がそれほど劇的なものでないからこそ死の無情さがひたひたとずっとそこにある感じは原作のほうが強くて、死が劇的だからこそ死に救いがあるように見えて百鬼丸が生きていく事のその生の残酷さが感じられるのが舞台版なのかなもしれない。

百鬼丸を演じた鈴木拡樹さん、他の舞台でも拝見したことがあるのだけれど、本当にバケモノみたいな役者さんだなあと思った。下手すると舞台上の作品の世界観と現実の板の間で浮いてしまうようなその役の特異性を自然と体現する演技に圧倒された。役をきちんと咀嚼した上で、体現したいよう自分を動かせる人なんだろうなと思った。無機質だった百鬼丸がどんどん人間らしくなっていく、その身のこなしや表情や声が、時の経過と出逢った生命とたくさんの喪失していたものや取り戻せたものを浮き彫りにしていき、その姿だけで百鬼丸という存在の哀れさをひしひしと感じられた。

多宝丸が本当に善良で無垢な青年だった。だからこそどうしたって罪を負い続ける両親との距離が埋まりきらなかったんだろう。無知であるがゆえの純白の無謀さ、残酷な善良さ、そして知ってもなお死ぬまで清らかであり続ける存在だった。それは百鬼丸の犠牲の上に成り立つ無垢さであり、百鬼丸の犠牲によって与えられた両親との心の距離なんだろう。原作では兄弟だと知ることなく戦い死んんでしまうけれど、舞台では兄弟だと知り、両親の罪を知り、その罪の残酷さを知った上でともに背負い、それでも兄と呼ぶことができて戦って死んだことが、良かったなあと思う。両親とのもどかしい距離感の理由を知ることができて、愛されていないという疑念の悲しみも知ってしまったけれど、縫の方とともに死んだことが個人的にとても救いだった。生前うまく愛し合えなかった母子が、死の縁でようやくしがらみのない愛情へたどり着けたように思えた。

醍醐景光を演じた唐橋充さん、とても好きで期待していたのですが、期待以上に素晴らしかった。うまく言語化することが出来ないけれど、人間の欲と業と罪と、上に立つ者がどう命を背負うのか、親が子の命を未来をどう背負うのかっていう葛藤がめちゃくちゃ良かった。かつてただただ「我が利」だったものは、あまりにも大きく膨れ上がり多くの生命を持ってしまったから、国という生命の塊をより少ない犠牲で守らなければならない国の主としての苦悩が深く表現されていたように思う。

奥方の縫の方もものすごく素敵で、百鬼丸の多宝丸の母としての側面と、国の民を背負う国の母としての側面とを丁寧に演じていて、その苦悩がものすごく伝わってきて、そのうえで百鬼丸に対して「救えない」ときちんと口にする、口先だけでない強さに圧倒された。自分のエゴイスティックな「救いたい」「愛したい」という気持ちを優先せず、救ってやることができない事実を口にする強さ、百鬼丸の犠牲の上に生きていることの自覚の強さなのだろうなと思った。原作ではこれほど強い人ではなかったと思う。どろろには、愛していることを伝えてやれと言われるんだけど、それをするにはあまりにも、ただの母親だけになれないしがらみが多すぎた。彼女もまたどろろに救われたのかも知れない。

寿海と成長した百鬼丸のやりとりがとても良かった。母親にやっと出会えて、それなのに救えないと拒絶されボロボロの百鬼丸が、名も知らぬ育ての親である寿海に名前を聞いたけれど教えてもらえず、それでも寿海が与えてくれた愛情をなんと形容すれば良いのかきちんとわかっているのが、百鬼丸が寿海の愛情できちんと育っていたことがわかるシーン。寿海のことを母上と呼ぶ百鬼丸に、それは違うそうではないと抱きしめながら否定する、寿海の愛情と苦悩が丁寧に演じられていてよかった。寿海が百鬼丸の体を作り戦う術を与えたことで、鬼神や妖怪と戦い身体を取り戻す修羅の道を突き進んでしまう、その結果たったひとり孤独になってしまうことを案じている様は誰より百鬼丸の親らしい存在だった。寿海といると百鬼丸はとても子供で無防備に甘えていて、それも切なかった。

ばんもんの乞食助六を舞台では生かした(原作ではあっさり死ぬ)割に、あまり役割を与えきれてない感じがするのがもったいないなと思った。田村升吾さんは別の舞台で好きなキャラクターをものすごく素敵に演じてくれて、役の解釈も興味深く好きだったので結構期待していて、助六も懸命に演じているのは伝わってきた。原作から取捨選択してストーリーを混ぜ合わせてつないでるから齟齬が出るのはしかたないにしろ舞台版のばんもんのストーリーで助六をわざわざ生かすなら何かしらもっと役割があればなあと思わずにいられなかった。

賽の目の三郎太と鵺のストーリーがうまく作りきれてない感が強くてそこが残念だった。舞台版の百鬼丸は魂の炎が悪意の有無が見えると舞台上でも表現してるのに、なぜ三郎太の悪意に気づかずのこのこ殺されかかるのか、その理由というか意図がうまくつかめなかった。
健人さんは三郎太はどんな思いだったと解釈して演じてたんだろう。舞台の三郎太、原作と全然違うからよくわからない。生きたくもない死にたくもない、母を見殺しにした罪の重さから逃げたいけど、何をどうしたって母親の命も自分のかすかな尊厳も帰ってこないのをわかってて、足掻いて足掻いて誰か早く殺してくれないかなって待ってたのか。火に薪をくべるみたいに鵺に自分の命をくべたのは、自分のように無様に逃げない百鬼丸には殺されたくなかったのかもしれない。

役者さんへの感想はここまでで、これ以降は演出面での愚痴です。舞台どろろが純粋に楽しいだけだった方はこの先はお読みにならないでください。

 


個人的に舞台どろろの演出、めちゃくちゃ苦手で好きじゃありませんでした……。なんというか全体的に(音響・音楽の選択と編集・照明・映像・場面転換などなど)雑だなあ感じたり、好みじゃない演出方法をとられていたりしたので、1度目の観劇は本当に愚痴しか出てこず、苦痛でした。

百鬼丸が生まれたときの表現として、なぜ赤ん坊の泣き声を使ったのか意図がわからない。目も鼻も口も喉も身体のありとあらゆる部分を奪われている百鬼丸が、生まれたとき産声もあげないからいつまでも産婆が縫の方に赤ん坊を見せなかったのではなかったのか?あの産声は誰の産声なのか?百鬼丸自身の主観的な声ということ?ただ単に生まれたことをわかりやすく表現したかっただけならあまりに安直すぎる。

観客がストーリーに入り込む前から場面転換が多すぎて気が散るし、ひとつひとつのシーンがぶつ切りに感じて余計にストーリーに入り込みにくい。人力での場面転換だから時間かかるし、場面転換中は長時間ストーリー止まるし、転換後に毎回小道具が不安定に揺れてるのが目に入る。
殺陣のシーン見ごたえはあるんだけど、途中で捌けてまた場面転換して(その転換で間延びしてるのに)また殺陣はじまるのが本当に微妙すぎる。役者さんたちの演技はめちゃくちゃ良い分、もっとうまいやり方がありそうなんだけど。
感情を吐露する場面のあとすぐ説明セリフが入るのやりにくそう、感情の吐露を回想シーンでやるのに余韻もなくすぐ現実に戻るから変な感じになるんだろうなと思う。あと感情の吐露を舞台の真ん中で客席に向かって前進してそこから客席に向かって叫ぶのダサくないか……。演出にきちんと意図を見いだせなかっただけかもしれないからよく知りもしないくせにって感じかもしれないけど、ダサい……と思うと思考が現実に戻ってストーリーに入り込みにくくなる……。
二幕は一幕よりは良かった。舞台どろろを見慣れたのと、自分がストーリーにやっときちんと入り始めたからってのもあるし、妙にダサさのあるプロジェクション演出が減って見やすくなったのも大いにあると思う。
泣かせどころ来たぞー!ここだぞーみたいな演出が苦手だし、はいここ見せ場どーん!注目ー!みたいなのも苦手、しかもそういうとき歌詞のついた曲を何度も何度も繰り返し流す感じが心がサーッと舞台から遠のいていく。アニメ見てたらここはもっと違う感情になったのか?わからないけど、歌詞付の歌が爆音で流れるとまずうるさいし、舞台のストーリーとキャラクターと台詞を反芻している思考が歌詞の言葉でめちゃくちゃに分断されて散ってしまう。どろろという作品を表現するのに効果的だとはまるで感じられないし、逆に演者を邪魔しているようにも感じる。歌詞付きの歌を流すにしてももっとタイミングや編集を丁寧にすればいいのに。感動するところも見せ場もそう見せたいという作り手の意思は当然あるだろうけど、ここだよ〜って主張が強すぎて、感動もここが良かったって思う場所も見る客個人に決めさせてよって思ってしまった。

メインキャストの役者さんたちの演技はもう本当に素晴らしく、アンサンブルの方々のダンスや身のこなしも良かったので、ひたすら演出が苦手で苦痛だった。この演出の方の舞台は今後なるべく避けて見に行かないようにしようと思った。高い勉強代だけど、良い役者さんの演技は見られたから今後の観劇の際にまた別の役で出会える楽しみも増えたなと思う。

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