インクルージョンボックス

私の内包物をつれづれと

ウォーキング・スタッフ プロデュース D51-651 観劇感想

2018年6月30日、シアター711にてD51-651を観劇。
戦後史最大のミステリー《下山事件》を題材に描かれた舞台。
没入感がやばい。ずっと緊張感がビリビリしてて腹ン中もやもやして頭の中ぐるぐるして怖かった。小劇場の舞台って勝手なイメージで内輪ネタみたいなノリを愛好できなきゃ見れないのかと思ってたけど、全くそんなことなくて余計なものが一切なくて逆に見やすかった。
和田憲明さんの演出、何かで見たことある気がしていたけど、赤坂レッドシアターでやってた舞台「口紅」だった。劇場の狭さ暗さとストーリーの中に閉じ込められていく息苦しい感覚が口紅のときとおんなじだった。あれもものすごくぐるぐると考えさせられた面白い舞台だった。

誰が殺したのか。誰を殺したのか。そんなことをずっと考えていた。いくら考えたところで上手くまとまらない。戦後っていつまで戦後なんだとか、負けたから負債を抱えて生きていくしかなくて、必死に生きてるだけで誰かが死んでいくこととか。
戦争のツケが底辺まで下りてくる、底辺、機関士の王寺は「自分を」底辺だと言った。機関助士の一戸や車掌の瀬野もまた、言ってしまえば底辺だけれど、王寺の意識の中ではきっと満州帰りで国鉄職員の人員増加の原因のくせに機関士として働いている、そして自分ではない誰かが次々と首を切られていくのを、何で自分じゃないんだと思いながら安堵するそういうことへの罪悪感が「自分を」底辺という理由なんだろう。
ただデカイだけの満州鉄道と比べて日本の機関車の良さを噛みしめるように語った王寺の、夢を見てるような嬉しそうな様子がなんか泣きそうになった。彼にとって美しい希望の象徴みたいな機関車が息苦しい失望に染まっていってしまうのが悲しいし、いずれ淘汰されゆく存在であることも悲しい。
下山事件自体が大きな誰かの手が背中を押したみたいな、轢き潰したみたいな、そんな風に捉えることもできるようだった。ずっとそこにいるD51-651が、ずっとこちらを見ているみたいで怖かった。何も言わない、言えない無機物が生き物みたいで。
機関助手の一戸が車掌の瀬野の首切りに抵抗しようと、弁護士に土下座するシーン、すごく印象的だった。あんなに熱心に他人のために土下座して頼み込むくらいに、機関車に携わる人間の機関車への愛情を信じている人。彼自身とてもまっすぐで一生懸命でとても悪い人間には見えなくて、それでも身近に感じられない人へは簡単に差別的な態度や話し方をするのが本当に生々しく人間らしかった。一戸は景気の悪い時代が生んだ、まっすぐで視野の狭い無知で愚かな青年だと思う。逆に瀬野は知識もあり弁も立つのにそれゆえに時代に殺されてしまう哀れな男だ。
自分の大事な信念を曲げたところで世界や世間どころか自分の周囲という狭い世界ですら何も変わらないし、ほんの少し前に口に出したちいさな希望や約束に似た言葉も、すぐに変質してしまう。わかりやすく誰かのせいでもなく、自分のせいでもなく、どこに恨みを向けたらいいのかもわからない。
ドミノ倒しみたいに次々と、みんなとめどなくすり減っていく。誰の望みも叶わない。機関車のそばに居たかったのは彼らだけじゃなくて、あの役人だって本当はずっと機関車のそばにありたかったんだろうな。首切り名簿にずらりと並ぶ名前、そうやって誰かを殺すたびに自分も死んで幽霊になる。殺されることに恐怖する。でもまた殺す。10万人殺したらやっと50万人が救える。役人の多面的な部分が次々に現れる、そのたびどれが本当なんだろうと思い、どれも本当なんだろうと思った。役人が、自分は死んだ下山総裁の幽霊だと言った。もしかしたら本当に亡霊なのかもしれなかった。下山総裁が生きていればやらなければならなかったことをやって、苦しみを背負って狂っていく。
弁護士の末永は自分をバッテンだらけだと言った。たった一人も救えずに、10万人も救えずに、自分が悪いわけじゃなくても自分の信じることすら貫けなくなっていく。いや、自分の信じるものってなんだ、そんなものあるのかって疑問にさえ思う。理性的なようで混迷していく、人に冷静になるよう諭すけれど自分も果たして冷静なのか。もう何もわからない。希望が見えないから。俯瞰で見たってなにも見通せない世界だ。
警察官の高岡は最初の現場検証や取り調べのとき笑っていた。事件だ、事件が嬉しいんだろう。だって仕事だ。戦争も戦後も何も関係ない自分の生きがい。下山総裁が轢断され、当事者の3人を当事者なんだから知らぬ存ぜぬは通用しない、人殺しだと何とも楽しそうに恫喝する。その時だけだった、生き生きとしていたのは。後はもう、逆に役人に利用され、事件を捜査することも困難になり、最後には恫喝したはずだった当事者たちに利用される側になりかわる。
そこにいる誰も強くなくて苦しい。何かに強かったらそのぶん別の何かに弱かったり、強かったはずの相手にも立場が転回して弱くなり、でもきっとその上にさらに反則技みたいな重圧の手がのしかかっていて、誰もそれを振り払えなくて、横にいる誰かに強くて弱い人間を殴ったり殺したりしながら自分を曲げながら生きてる。
みんなバッテンがついて汚れて、口をつぐんで、罪を飲み込んで生きる。真実が捏造された時に、すでに遠く隠されていた本当が嘘にまみれて余計に見えなくなって手が届かないところまで行ってしまう。本当に、誰が殺したんだろう。誰を殺したんだろう。誰もが被害者で加害者で失望の中をくたくたに生きて、誰かに殺されるであろう日を待っているのがこわかった。