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インクルージョンボックス

私の内包物をつれづれと

孤島の鬼 観劇

2017年2月5日、赤坂レッドシアターで「孤島の鬼-咲きにほふ花は炎のやうに-」をマチソワで観劇してきました!
江戸川乱歩の世界観はきっと難しいだろうと思って、原作をある程度読んでから行ったら、ものすごく楽しめて良かった。
美しい人間の醜さと、醜いとされる人間の美しさがぐちゃぐちゃに入り乱れて、美しいとはどういうことなのかと考えさせられた。
過去の箕浦と、現在の箕浦である「私」を別のキャストが演じることで、より物語の解釈の自由度が広がっているように感じた。
ちょっと検索するだけでいろんな方のいろんな感想が飛び交っていて、本当におもしろい!
全く思いもよらない角度からの考察読むのがめちゃくちゃおもしろくて、同じものを見ていても、全く違うものを見ている。
見る人の数だけ様々な解釈を生み出す化け物みたいな舞台だ。
以下、まとまり切ってない感想。

(12日の前楽も観劇し、また違う感想も生まれてしまって、5日の感想の後に追記しました)

過去の箕浦と、現在の箕浦「私」の交錯するバランスを見ていて、過去の箕浦はあくまで「私」の創作物なんだと思った。

「私」は誇張が過ぎるくらい自己愛が強く、愛されることに貪欲で、自分が美しいことをよく知っていた。

過去の箕浦は自分の美しさに対して、あまりにも無知で無頓着で無邪気ゆえに残酷で、でも決して直接的に諸戸を否定はしなかった。

だからこそ過去の箕浦はあくまで「私」の創作物だと思った。
ストーリーテラーでありこれから起こる惨劇を知っている「私」が諸戸に対して目をそらす場面で、過去の箕浦はじっと諸戸を見つめているシーンが沢山あった。
終盤「私」と過去の箕浦の立場が入れ替わるところが特に顕著で、秀ちゃんに夢中の「私」、傷つく諸戸を見つめ続ける箕浦という構図が印象的だった。
そしてラストシーン、諸戸が最後の最後まで箕浦を思い続けて死んだことを知った「私」と、それに手を伸ばす諸戸の間で、諸戸をやさしくなだめて共に消えていく過去の箕浦
諸戸に強く手を握られても決して自ら握り返すことをしなかった「私」と、優しく手を握り返したり目をそらすことなくじっと見つめたりしていた過去の箕浦は、圧倒的に別の存在に感じられた。
原作であまりにも報われずに死んた諸戸が、すこしだけ報われたような気がした。

衣装の演出の意味をずっと考えてる。諸戸以外の全員が白い衣装をはじめから汚している。その中で異様なまでに純白を保ち続ける諸戸。
それが、あの枯れ井戸の六道の辻での箕浦とのやり取り、愛を告げ欲を告げ全てをさらけ出した時、ベストをはだけたその中はひどく汚れていた。
隠していた愛と欲と絶望感と、誰にも言わずにいた自分が生きていることへの罪悪感を解き放った時に、あの汚れが表面化したことの意味。
穢れなき純白をまといつづけ、誠実さや清廉さすら感じさせた「美しい」諸戸の中にある醜さ。愛欲とは醜い感情だろうか。
あの隠し続けていた汚れは、邪悪な人殺しの父の子であるという自意識なんじゃないか。異端である、奇異であるというかなしい自意識と劣等感。

田中涼星さんのすらりとしたバランスの良い長身の立ち姿、清潔感のある美しい顔立ちに穢れのない白が良く映えて、諸戸を優秀な美青年であることをはっきりと浮き彫りにさせるのに、なぜだろう、かなしいくらいに報われない男が似合っていた。かなしみがよく似合う美貌だった。

「私」と過去の箕浦は、意識的に表現する感情をセパレートされていて、佐藤永典さんが演じる「私」は、どこかアブノーマルな美しさをまとい偽悪的なのではと思うくらいにひどい男であり、諸戸に対しても自覚的に弄ぶけど、石田隼さん演じる箕浦は純朴で無垢で無邪気で、どこまでも無自覚にノーマル。諸戸に対する反応も、「私」が表現する生理的な嫌悪からの拒絶よりももっと手前の、自分の常識とは違う存在への戸惑いのようだった。
「私」が諸戸を通り過ぎて秀ちゃんに駆け寄るシーンなんて、本来同一人物であるはずなのに、過去の箕浦は「私」に対して侮蔑するような目を向けたりもした。
ラストシーンの箕浦と諸戸は、「私」を置き去りにして穏やかに微笑んで立ち去った。

なぜ「私」は過去の箕浦を創作したのか。諸戸に対する哀れみだろうか。
この世の考えうる数多の幸福を手にいれたけれど、あの自分にひざまづいて必死に愛を乞う、自分よりも優れた美しい男を手放してしまったことを、幸福の中で少し物足りなく感じたのか。
だとしたら、「私」は永遠に自分の心を満たしきる幸福にはなれない。
富も美しい妻も手に入れて、誰より順風満帆に見えたとしても、周囲は不躾に自分の奇異な外見に目をやるし、妻の傷跡も詮索される。
そんな中、自分だけを必死に愛して死んだ、自分よりも優れた美しい男に求められたという、美しかった自分をふりかえる。
それは妻にだって満たしてもらえない種類の優越感だ。
今の白髪の「私」は、箕浦の「美意識」の中では「かたわ」なのかもしれない。
自分に優越感を与え続けた諸戸が死んで、かつてのある意味「かたわ」ではない自分を失った「私」を慰めるために、美しかった頃の自分を生み出してマスターベーションにふけった。
諸戸は生きている間に報われなかったけど、こんなふうに死後に執着を向けられていることを知ったらどう想うだろう。
婚約者を亡くしたばかりの箕浦に、それでも恋は成就していて自分よりもマシだと告げたように、少しは報われた気分になるだろうか。
過去を美化して勝手に浅はかな自己憐憫に浸る姿に、恥はないのかと言うだろうか。

正常と異常、美しさと醜さが混ざり合い、境界があいまいになって、ついには逆転してしまうような、そんな世界観だった。
どう考えたって美しい男が、醜い人間を演じるのって面白い。
孤島の鬼の丈五郎は原作では姿形から醜いのに、河合龍之介さんは佝僂に見せる衣装は着てるけどどう考えたって美しい。
美しい人が醜い人間を演じた時、その人の中の醜いところを探す。美しい皮の下の、醜いということを懸命に探して考える。
醜いとは何なのか、何を描きたいための醜さなのかが、美しい役者を通すことでろ過されるように明確になる時がある。
美しい役者だからこそ醜さの中にやりきれない哀れさがあった。

こんなことをつらつらと考えた後にパンフレットを読んだら、美意識についての言及があってびっくりした。
この舞台が表現しようとしたものの一端をとらえることができていたのかなと思えて嬉しかった。

他の方の全く違った解釈の感想がまたすごく面白い!
同じものを見ていたと思えない着眼点で改めて孤島の鬼を観劇しているようで、気付きがたくさんあって楽しいな~。

★追記★
2月12日の前楽も観劇してきました。5日のマチソワ2回しか入れないと言ったな、スマンありゃウソだった。
ツイッターでブログUPするとき、2回しか見られないのが残念とかつぶやいておきながら、結局当日券チャレンジで増やしてしまいました。
ほんとおもしろい舞台は罪だわ。上手くまとまらないけど、そのまま吐き出します。感じたことのキーワードだけでの残しておかないと忘れるので。

箕浦はやっぱり「私」とは別の存在だと思った。
ラストの「私」と箕浦の立場が完全に逆転したところ、樋口の財宝が秀ちゃんと私の共有財産になったことを嬉嬉として話す「私」を侮蔑の目で睨む箕浦
あくまで「私」を求めて手を伸ばす諸戸。
諸戸の死を知ってうめき声をあげて手紙を握りつぶす「私」。

今回は「私」に注目して見てたけど、「私」は諸戸をひどく意識してた。諸戸が箕浦を見ている様を、見つめていた。
諸戸の視線の先に度々入り込む「私」、会話や視線の先の比重が箕浦より「私」になっていく諸戸、「私」に対して自己対話から離れ蔑みの眼差しで見る箕浦

諸戸が欲しい愛は「私」の性愛。箕浦は諸戸に親愛の情を抱いてるけど諸戸の欲しいものは理解できない。
最終的に「私」は諸戸の性愛はいらないのに、性愛の対象でありたくはあったのかな。
自分が美しかった、優れていた頃の象徴が諸戸の執着ならその源は性愛だ。

諸戸は箕浦の親愛とともに、「私」を置き去りに消えた。
箕浦は優しく微笑んでいた。諸戸の表情はわからなかった。やっぱり報われてはいなかったのかもしれない。
偶像(箕浦)の愛情はいらないのかもしれない。生身(「私」)の愛でなければ。

諸戸の死を知った最後のシーンの「私」は、諸戸の裏切りに怒りと憎しみを抱いていたように見えた。
諸戸が自分のかかわらない場所で勝手に死んだこと、「私」に未練があるくせに、かたわだらけの孤島に、かたわになった「私」を置き去りに、ひとりで先に死んだことを怒って恨んでいた。
それは「私」への執着を絶やさずいると思っていたから。

「私」の諸戸への感情は、諸戸と同質の愛欲では無かったけど、同じだけの質量はあったのかもしれない。
諸戸が必死に抑えようとして抑えきれずに溢れるほどの感情を、凌辱された後でも受けていたかったほど。
知識がなくても知恵のある元かたわで今は健常者の秀ちゃん、元健常者で今はある意味かたわの「私」。
パワーバランスが崩れたからこそ、「私」には諸戸の執着が必要だった。
かたわになった「私」でも、何ひとつ変わらずに愛し続けてくれる、健常者にみえる異常者がほしかった。ひどい男だ。
「私」がどんな存在になろうとも、愛と執着に塗れて自分を乞い続ける、自分より美しくて哀れで優れている存在が近くに必要だった。

箕浦は最初、生や歓喜の象徴のようだった。恋の喜びや死に別れた絶望に打ちひしがれて感情豊かだった。
初代が死んだ時や深山木が死んだ時の箕浦の、衝撃を受け止めきれない声にならない慟哭が、身体が引き裂かれるように身も世もなくもだえ苦しむ姿が印象的で、その時の箕浦があまりに生きた箕浦だったから、「私」と役割が入れ替わった後の物言いたげで生を感じられない箕浦が切なかった。
最終的に「私」に取って代わられてストーリーテラーの役割を押し付けられ、誰からも認識されない存在になるの切ない。
失うばかりを担う、「私」の都合の良い創作物。唯一できる抵抗は、「私」を侮蔑すること。
けれど最後に微笑んでいるのは箕浦なんだ。滑稽なほどに失ってしまうのは「私」。

諸戸の愛情は皮肉なくらい育ての親に似ていて悲しい。
愛が凌辱になるのな母から教えられてしまったことだし、丈五郎がかつてまだまともだった頃の、愛してくれなくてもそばにいさせて欲しい、それを許して欲しいという懇願のような愛は、まだ理性的に「私」を思っていた頃の諸戸と同じだ。
丈五郎が気が違ってしまったシーンが孤島の鬼で一番やるせなくて泣きそうになった。あの時、なんて似ている親子なんだって、悲しくなった。
これでは実の親子ではないって知らされたって救いがない。こんなにも似ているんだから。どうしようもなく親子だったんだから。

六道の辻で「私」が諸戸に、嫉妬しているねと告げた時の、諸戸の激情がすごかった。
わかりやすく怒鳴ったり暴れたりなんてしなくても、ああやって静かにゆっくりとした動きでも、逆鱗に触れたのだとはっきりと分かった。
ゆっくりと感情が枷から解き放たれて暴走する。
見開かれた瞳から迸る激流のような愛欲、ひび割れた笑みのように歪んだ口、あの清廉な諸戸とは似ても似つかない姿だけど、見覚えもあって。
箕浦のことを気づかれないように見つめていた時の、ねちっこい視線、あの隠していた執着の成れの果てだ。

見えた世界が全てだけど、見えたものが真実とは限らないからむずかしい。

孤島の鬼の感想をまとめた時、諸戸は少し報われたかもと書いたんだけど、そう書いたことで本当に報われたのかという疑念が浮かんでしまった。
5日に見た時は報われたように感じたのに、12日に見たらもう分からなくなった。
言葉にしないと思いを固定できないけど、言葉にすると本当じゃなくなる気もする。
感じたことそのままに言葉として具現化することは不可能で、言葉にしたとたんにどこか歪んでしまって、感じたままの姿ではなくなっている。
結局、報われてほしいと思って見たから報われたように見えて、疑念を抱きながら見たから分からなかったんだろうな。自分の見たいものしか見えない。
孤島の鬼の感想や考察はそのまま自分の内面や倫理観を映し出すから書くのが怖いという感想もあった。そういうことなんだ。

<他の方の考察や感想を読んでの追記>
◆真っ白な衣装の汚れが緑色に汚れていた理由について。
緑は嫉妬の色というのを読んで、すごく納得!
諸戸も含めてほぼ全員が黒と緑で汚れてた。でも「私」だけは黒い汚れだったように記憶してる。
「私」は嫉妬してないのか?それともストーリーテラーだからか?さらにわからなくなった。
DVD予約したので映像でちゃんと確認してみたい。
→2/12前楽に入って確認したところ、やはり「私」だけは緑は入っていない、黒い汚れだった。

◆原作と前作での「蓑浦」表記と、今作の「箕浦」表記の違いについて
「私」が箕浦を創作したと思ったんだけど、諸戸が見ていた蓑浦が「私」で、諸戸が見落とした蓑浦が箕浦なのでは?っていう視点がすごいおもしろい。盲点だった。
そう考えると、諸戸が六道の辻で蓑浦である「私」に求めたのは性愛で、凌辱だったわけだけど、性愛を求めなければ箕浦となら慕わしい関係でいられたかもしれない。
でも、諸戸はそれしか知らないもんな。愛を乞う=性愛で凌辱なんだ。自分が母親にされたように。
原作では諸戸が女を嫌悪した原因が描かれてるので、いっそうかなしい。
諸戸は身体自体は不具者ではないけれど、丈五郎がかたわを作るために子供を箱詰めしたように、精神的がそうされてしまってたから、心がかたわになってしまってて本当にかなしい。

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